著者: 無職仙人
海辺の小さな避難所
「はたらきたくないでござる~!」
タブレットの向こうで、サトルは今日も元気に潰れていた。
正確には、港町の古びた食堂の畳席で、巨大な白ウサギ――モチ丸の腹毛に半分埋もれていた。
画面越しの月見堂では、ナツメがカウンターを拭きながらため息をつく。
「ユカを休ませたと思ったら、今度はあんたがウサギに休まされてるわけ?」
「不可抗力でござる。モチ丸氏、海風が気に入ったらしく、拙者を座布団扱いでござる」
「便利ね、無職仙人座布団」
その横で、当番表の「ユカ 休日」の文字をちらりと見たユカが、少しだけ笑った。
サトルの背後には、木枠の窓と、白く光る海が見えていた。潮の匂いが画面越しにも届きそうなほど、空気がやわらかい。
店の名は、浜風食堂。
港の外れにぽつんと建つ、年季の入った小さな食堂だった。
昼どきの浜風食堂は、静かに満席だった。
焼き魚の煙、味噌汁の湯気、少し欠けた茶碗。壁には手書きの品書きが貼られ、「さば味噌」「肉じゃが」「本日の小鉢」と、丸い字で並んでいる。
派手な料理はない。けれど、どれも誰かの一日を持ち上げるくらいには温かそうだった。
「今日で閉店でござる」
サトルが小声で言うと、画面の向こうのナツメが手を止めた。
「……閉店?」
「ああ。五十年やったらしいでござる」
厨房では、白髪の老店主が、鍋の蓋をゆっくり持ち上げていた。背中は少し丸いが、動きに迷いはない。最後の日だというのに、いつも通りに米をよそい、味噌汁を注ぎ、客の前へ置いていく。
「じいさん、ほんとに今日で終わりかよ」
作業着の男が、箸を握ったまま言った。
老店主は笑わず、困ったように目尻だけを下げた。
「終わりだよ。膝も腰も、もう店より先に閉まりたがってる」
「寂しくなるなあ」
「そう言ってもらえるうちに閉めるのが、店にも客にもいいんだ」
その言葉は、湯気みたいに軽く立ち上がって、食堂の天井にしみた。
サトルは、モチ丸の腹の下から顔だけ出して、じっと老店主を見ていた。
「店を畳むの、怖くないでござるか?」
ふいに聞いたサトルに、老店主は少しだけ首を傾げた。
「怖いよ。朝起きて、仕込みをしない自分が想像できない」
「なら、なぜ」
「続けるために始めた店が、いつの間にか、続けるために自分を削る場所になってたからだよ」
その声は静かだった。
責めるでもなく、嘆くでもなく、ただ、長い時間を置いてきた人の声だった。
「ここはね、みんなが飯を食って、少し黙っていられる場所だった。がんばれとも、もっとやれとも言わない。ただ、腹が減ってるなら食べなさいって場所だ」
老店主は鍋をかき混ぜる。
「でも、その場所を守る人間も、腹が減る。眠くなる。足が痛くなる」
ナツメは画面の向こうで、何も言わなかった。
その横で、ユカもミナトも、ただ耳を傾けていた。
「店を続けるなら休みなよ」
老店主は、画面の向こうの月見堂に向かって言った。
「休まない店は、いつか客より先に倒れる」
最後の昼食が終わる頃、常連たちは会計横の空き箱に、小さな紙片を入れ始めた。
「夜勤明け、ここで寝そうになっても怒られなかった」
「母が死んだ日に食べた味噌汁、忘れません」
「会社を辞めるって決めた日、ここの肉じゃがで泣きました」
「何も聞かないでいてくれて、ありがとう」
言葉は短い。
けれど、どれも箸より重かった。
サトルは黙ってそれを見ていた。いつもの軽口は、しばらく出てこなかった。
その時、モチ丸が鼻先で壁をつついた。
「ん?」
壁の隅、古いカレンダーの裏に、一枚の伝票が挟まっていた。黄ばんだ紙の端に、銀色の小さな三日月印。
サトルの目が細くなる。
「……これ、満月便の印に似てるでござるな」
老店主は振り返った。
「ああ、それか。昔、砂糖を仕入れてたところの伝票だよ。たしか……満月堂、だったかな」
月見堂のカウンターで、ナツメが息をのむ音がした。
「満月堂……製糖?」
「さあ、詳しくは知らない。ただ、疲れた客に甘いものを出すと、少し顔が戻るだろう。あの砂糖は、不思議とよく効いた」
ファンタジーみたいな話なのに、老店主の口調は、古い調味料の話をするくらい自然だった。
だから余計に、胸の奥に残った。
やがて暖簾が外され、浜風食堂の扉が閉まった。
海からの風が、紙片の箱を少しだけ揺らす。
サトルはタブレットを膝に置き、メモ帳を開いた。
避難所は、月見堂だけじゃない。
少し考えて、もう一行足す。
どの避難所も、休んでいい。
画面の向こうで、ナツメが小さくうなずいた。
サトルはモチ丸の背を撫で、海の白い光を見た。
「……さて。拙者もそろそろ、潰される仕事を終えたいでござる」
モチ丸は、返事の代わりにさらに体重を預けた。
「いや、それは労働基準法的にどうなのでござる~!」