著者: 無職仙人
満月便の倉庫
「いや、それは労働基準法的にどうなのでござる~!」
タブレット越しの悲鳴を最後に、サトルの画面はモチ丸の白い腹毛で埋まった。
月見堂のカウンターでは、ナツメが深いため息をつく。
「……あいつ、旅先でもだいたい潰れてるわね」
「でも、少し元気そうでした」
ユカが笑う。ミナトも本音ノートの端を押さえながら、小さくうなずいた。
その時だった。
裏口の郵便受けが、ことん、と鳴った。
ナツメが扉を開けると、そこには封筒ではなく、一枚の濃紺の紙片が挟まっていた。月明かりを吸ったような深い青。表には宛名がない。
ただ、銀色の三日月印と、短い文字。
本日、満月便倉庫へ。
受取人――月見堂。
「……招待状?」
ユカがのぞき込む。
ミナトの指先が、紙片の端に触れた瞬間、黒い煤がふわりと浮いた。けれど、それは嫌な煙ではなく、冬の吐息みたいに薄くほどけた。
タブレットの向こうで、毛玉の隙間からサトルの声がした。
「拙者、こういうの知ってるでござる。行ったらだいたい、重要NPCがいるやつ」
「ゲーム脳をしまいなさい」
ナツメはそう言いながらも、濃紺の配達票を握りしめた。
胸の奥には、不安があった。
月砂糖。黒い煤。昼の白い月。本音ノート。
月見堂は、知らないうちに何か大きなものの入口に立っている気がした。
裏口を出ると、いつもの細い路地が少しだけ違って見えた。
商店街の明かりは遠く、空には欠けた月が薄く浮かんでいる。配達票の銀の三日月が淡く光ると、路地の突き当たりに見慣れない扉が現れた。
古い倉庫のような、飾り気のない鉄扉。
その前に、銀髪の三つ編みの少女が立っていた。濃紺のケープが夜風に揺れる。
「時間通り」
「あなたが呼んだの?」
ナツメが尋ねると、少女はこくりとうなずいた。
「満月便の倉庫。見ておいたほうがいいと思ったから」
「それ、魔法の倉庫とか言わないわよね」
「魔法ではないです」
少女は扉に手をかけた。
「たぶん、みんながそう呼ぶだけ」
扉の向こうには、思っていたより普通の空間が広がっていた。
木箱、棚、台車、古い伝票。奥では誰かが荷札を書き、別の誰かが小瓶に砂糖を詰めている。年配の女性、学生らしい青年、作業着の男性。誰も派手なローブなど着ていない。
ただ、皆、声が静かだった。
棚には小さな名札が並んでいた。
浜風食堂。
星待ち珈琲。
雨宿り庵。
夜明けベーカリー。
そして、新しい木札に、まだ乾ききらない墨で――月見堂。
ユカが息をのむ。
「こんなに……あるんですか」
「本音を預かる場所。少し休める場所。がんばれと言わない場所」
少女は淡々と言った。
「満月便は、そういう場所をつなぐためにある」
ミナトが周囲を見回した。棚の一角には、黒い煤のついた紙束が、丁寧に紐で結ばれている。
「じゃあ、月砂糖って……不思議な力で作られてるんじゃ」
「砂糖は砂糖です」
少女はきっぱり言った。
「ただ、作る人たちがいる。昔、自分の声を失いかけた人たち。助けて、と言えなかった人たち。だから、誰かが黙って壊れる前に、少し甘いものを届ける」
倉庫の奥で、小瓶に砂糖を詰めていた女性が、こちらに軽く頭を下げた。喉元には小さな傷跡がある。けれど、その目は穏やかだった。
「魔法じゃないの」
ナツメはつぶやいた。
「互助です」
少女は短く答えた。
その言葉は、コーヒーよりゆっくり胸に染みた。
月見堂は、ひとりで変な現象に巻き込まれているのだと思っていた。けれど違った。
どこかの町にも、港にも、路地裏にも、同じように誰かの本音を預かってきた場所がある。
孤立していない。
そう思った瞬間、ナツメの肩から少し力が抜けた。
少女は棚から、小さな木箱を下ろした。
中には月砂糖の瓶が六つ。蓋には銀の三日月印。
「月見堂、次回分」
「助かるわ。最近、減りが早くて」
ナツメが受け取ろうとすると、少女は木箱を少し引いた。
「条件があります」
「……料金なら払うけど」
「料金ではなく、約束」
少女の銀色の瞳が、まっすぐナツメを見る。
「月砂糖を受け取る店は、休む約束をすること。受付時間を守ること。預かる人の本音も預けること」
ユカが当番表を思い出したように胸元を押さえた。
ミナトも静かにうなずく。
ナツメは苦笑した。
「耳が痛い条件ね」
「休まない避難所は、避難所ではなくなります」
その言葉に、浜風食堂の老店主の声が重なった。
休まない店は、客より先に倒れる。
ナツメは木箱に手を添え、ゆっくり息を吸った。
「約束する。月見堂は、預かるだけの店にはしない。預かる人も、ちゃんと休む」
その瞬間、木箱の三日月印が淡く光った。
タブレットの向こうから、サトルが感動したように言う。
「ナツメ氏、立派でござる……拙者も休む約束なら毎日できるでござる」
「あなたはまず、働く約束を一ミリくらい検討しなさい」
「はたらきたくないでござる~!」
倉庫の空気が、ほんの少しだけゆるんだ。
少女も、気のせいみたいに口元を動かした。
月見堂の裏口へ戻る頃、夜風は少し冷たくなっていた。
木箱を抱えたナツメの胸には、さっきまでの不安とは違う重みがあった。責任の重さ。でも、ひとりで背負うものではない重さ。
少女は路地の影に立ち、最後に言った。
「次の満月、煤が増えます」
ナツメたちは顔を上げた。
「どういう意味?」
「飲み込まれた言葉が、満ちる日だから」
少女はそれ以上説明しなかった。
濃紺のケープが夜に溶ける。銀髪の三つ編みだけが、月の糸みたいに一瞬光った。
「備えて。休みながら」
そう告げて、満月便の配達少女は路地の向こうへ去っていった。
月見堂の裏口には、月砂糖の木箱と、新しい約束だけが残された。