著者: 無職仙人
白い月の影
昼の白い月が、今日は店内の床に影を落としていた。
冬の陽ざしに紛れるはずの淡い丸が、月見堂の古い板床に、ぼんやりと白い輪郭を刻んでいる。窓ガラス越しの光なのに、なぜかそこだけ夜みたいに冷たかった。
「……昼の月って、影を落とすものだっけ」
ユカが本音ノートを抱えたまま、ぽつりと言った。
ナツメはカウンターでカップを並べながら、いつもの顔で答える。
「うちの場合、常識はだいたい入口で靴を脱いで帰るから」
「その常識、できれば戻ってきてほしいです」
ミナトが苦笑しつつ、テーブルの端に小さな記録用紙を広げた。
そこには日付、時間、来客数、本音紙片の枚数、そして――煤の量が細かく書き込まれている。
店の入口には、今日も札がかかっていた。
《本音受付:一時間十枚まで》
《休憩時間は必ず取ります》
《外部お問い合わせは代理窓口へ》
けれど、その下に差し込まれた封筒は三通。
市役所からの申請書の修正版。
テレビ局・秋川からの「再取材のお願い」。
それから、知らない誰かの便箋。
《月見堂なら、うちの部署も救えますか》
その文字の端に、黒い粉がうっすら滲んでいた。

「申請書は、白石さんが条件を入れてくれたやつですね」
ユカが封筒を開ける。
今度の書類には、《随時受入》も《実績報告義務》もない。かわりに、手書きの付箋が貼られていた。
“月見堂の休む権利を優先する文言、上に通してみます。無理なら登録しません。”
ナツメはそれを見て、少しだけ目元をやわらげた。
「白石さん、頑張ってるね」
「頑張りすぎてないといいですけど」
ミナトの言葉に、三人とも一瞬黙る。
続いて秋川からのメールを兄の代理窓口経由で確認すると、文章は丁寧だった。
“以前の反省を踏まえ、撮影なし・録音なしで、まずお話だけでも。”
悪意はない。
むしろ、前よりずっと慎重だ。
それでも、紙面の端に黒い煤が浮いた。
「……悪い人じゃなくても、煤って出るんですね」
ユカが小さく言う。
カウンターの上で、月砂糖の瓶がかすかに鳴った。
ナツメが振り向く。
透明な瓶の底。
いつもなら銀色の粒が、光を受けて星みたいに揺れる。
けれど今日は違った。
銀光より先に、黒い粒がひとつ、底でころりと動いた。
「なに、これ」
ナツメの声が、ほんの少し低くなる。
タブレットの画面が点灯し、旅先のサトルが映った。背後ではモチ丸の白い腹が画面の半分を占領している。
『はたらきたくないでござる~……って言いたい空気じゃないでござるな』
「言ったけどね」
『様式美でござる』
サトルは冗談めかしたが、その目は笑っていなかった。
『満月、近い?』
ミナトが記録用紙を見下ろす。
「三日前です」
『煤が増えるって、配達少女氏が言ってたでござる』
「増え方が、変です」
ミナトはペン先で表を叩いた。
「昨日までは、本音紙片一枚につき煤が少し。でも今日は、申請書、取材依頼、期待の手紙……まだ受け取ってない言葉からも出てます」
ナツメが眉をひそめる。
「つまり?」
「月見堂に“受け止めてくれるはず”って期待が向いた時点で、煤が発生してるのかもしれません」
店内の空気が、コーヒーの湯気ごと重く沈んだ。
午後になると、来客は途切れなかった。
「会社に行く前に、五分だけ座ってもいいですか」
「返事はいりません。ただ、書かせてください」
「ここなら、怒られないって聞いて……」
ナツメは平気な顔で受け続けた。
カップを温め、月砂糖を一粒だけ落とし、短く返す。
「座っていいです」
「返事がいらない日もあります」
「ここでは、急がなくていいです」
その声は落ち着いていた。
だからこそ、ユカは気づいてしまった。
ナツメの指先が、カップの取っ手を持つたびにほんの少し遅れること。
笑顔の戻りが、さっきより半拍遅いこと。
カウンター下に置いた休憩用の椅子へ、一度も座っていないこと。
「ナツメさん」
ユカの手も震えていた。
本音ノートのページを押さえる指が、紙の端をくしゃりと潰す。
それでも、彼女は震える手で、ナツメの手首を止めた。
「休憩です」
「あと二枚だけ」
「だめです」
ユカの声は細かった。
けれど、折れなかった。
「好きだから大丈夫、は、私もよく使ってました。でもそれ、あとで自分に請求書が来るやつです」
ナツメは目を伏せた。
ミナトが記録用紙を差し出す。
煤の欄だけ、黒く滲んで読めなくなりかけていた。
「増え方が危険です。満月前でこれなら、当日は……」
タブレットの向こうで、サトルがモチ丸の毛に埋もれながら、静かに言った。
『休むのは敗北じゃないでござる。月見堂が倒れたら、誰も座れない』
ナツメは深く息を吐いた。
「……十枚、終わったら休む」
「今です」
ユカが言い切る。
その瞬間、床に落ちた白い月の影が、少しだけ濃くなった気がした。

夕方。
入口の札は、まだ開店のままだった。
外には、順番を待つ人が数人いる。みんな静かで、誰も責めてはいない。けれど、その静けささえ、月見堂の扉には重かった。
奥の棚には、臨時休業札が立てかけられている。
《一時間、休みます》
以前、勇気を出して使った札。
ナツメが手を伸ばしかけ、止まる。
その札の上に、どこから落ちたのか、黒い煤がふわりとかぶった。
まるで、休むことさえ許さない誰かの影みたいに。
ユカは唇を噛み、ミナトは煤の記録欄に新しい線を引いた。
白い月は、まだ昼の顔で窓の外に浮かんでいる。
そして月見堂の奥で、休業札だけが静かに黒ずんでいった。