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第24話: 旅先の閉店札

無職仙人の話

著者: 無職仙人

旅先の閉店札

「はたらきたくないでござる~!」

雨の港町に、サトルの声がふにゃりと溶けた。

濡れた石畳は黒飴みたいに光り、遠くで船の汽笛が低く鳴っている。冬の雨は細く、けれどしつこい。傘を持つサトルの横で、巨大白ウサギのモチ丸は、ある小さな店の前にどっしり座り込んでいた。

木枠の扉。曇ったガラス。軒先に揺れる、手書きの札。

《本日、閉店前の最後の営業です》

「……モチ丸氏。そこ、営業妨害でござるよ」

モチ丸は動かない。白い背中に雨粒を乗せたまま、じっと扉を見ている。

サトルはため息をつき、札の下に小さく書かれた店名を読んだ。

港雨珈琲店

「名前からして休みたいでござるな」

そう言いながら、サトルは扉を押した。


店内は、雨音が似合う場所だった。

古い柱時計。二席だけのカウンター。窓際には、潮で色あせたクッション。月見堂よりさらに小さく、けれど誰かの背中をそっと預かってきた匂いがした。

「いらっしゃい」

カウンターの向こうで、白髪まじりの店主が微笑んだ。年齢はナツメよりずっと上だが、浜風食堂の老店主ほどではない。手の甲に細かな傷があり、長く働いてきた人の手だった。

「閉店、されるんでござるか」

「うん。今日でね」

店主はコーヒーを淹れながら、あっさりと言った。けれどその声の底に、雨より重いものが沈んでいるのを、サトルは聞き逃さなかった。

モチ丸は入口近くのマットの上で丸くなり、店の空気を壊さないように静かに鼻をひくつかせている。

「惜しまれる店っぽいでござる」

「惜しまれるほど、大きなことはしてないよ。ただ、疲れた人が雨宿りしていくだけの店」

「それ、めちゃくちゃ大きいでござるよ」

店主は少しだけ目を細めた。

カウンターの上には、砂糖壺があった。白い角砂糖の隙間に、ほんの数粒、銀色の粒が混じっている。

月砂糖に似ていた。

けれど、月見堂のものよりずっと粗く、不揃いで、まるで誰かがこぼした月明かりを拾い集めたみたいだった。

サトルの視線に気づき、店主は苦笑する。

「昔、旅の配達の子からもらったんだ。疲れた顔の客にだけ、一粒入れるといいって」

「銀髪三つ編み、濃紺ケープ?」

「さあ。雨の日だったから、顔はよく覚えてない。ただ、妙に仕事に厳しい子だったよ。『淹れる人が倒れたら意味がない』って」

「……あの配達少女、全国区でござったか」

サトルは思わず天井を見上げた。

雨漏りはしていない。けれど、この店もずっと誰かの雨を受け止めていたのだろう。


コーヒーは、少し薄めで、あたたかかった。

サトルが一口飲むと、店主はぽつりと言った。

「畳むのはね、売上のせいだけじゃないんだ」

「ほう」

「家族が、働けなくなった」

サトルの指が、カップの縁で止まる。

「病気というほど、簡単に名前がつくものでもなくてね。朝になると動けない。人の声が怖い。けれど本人は、働けない自分を一番責めてる」

雨音が、店内の沈黙を守るみたいに続いた。

「だから、店を続けている場合じゃないと思った。ここを開けていれば、誰かは救えるかもしれない。でも、家でひとり震えてる家族を置いてまでやることかって」

店主は笑った。申し訳なさそうな、でも少し楽になったような笑顔だった。

「この店は避難所だった。でも、今はうちの中に避難所が必要なんだ」

サトルは何も言えなかった。

月見堂のことが頭をよぎる。ナツメ。ユカ。ミナト。兄。白石。行列。札。守るための仕組み。

そして、守るために閉じる場所。

「閉めるの、逃げじゃないでござるな」

「逃げだよ」

店主はすぐに言った。

「でも、逃げてもいい逃げ方って、あるだろう?」

サトルはカップを両手で包んだ。

「……あるでござる」

その声は、いつものふざけた調子より少し低かった。

挿絵 slot2

夕方、雨が弱くなった頃。

サトルは月見堂へビデオ通話をつないだ。画面の向こうでは、ナツメがカウンターを拭き、ユカが本音ノートを閉じ、ミナトが黒い煤のついた紙片を封筒にしまっている。

「どうしたの。そっちは雨?」

ナツメが尋ねる。

「雨。そして閉店札。そしてモチ丸氏が入口を占拠」

画面の端でモチ丸が耳だけ映り、ユカが小さく笑った。

サトルは、港雨珈琲店のことを話した。閉店する理由。働けない家族。砂糖壺の銀の粒。雨宿りしてきた人たち。

ナツメは黙って聞いていた。

サトルは最後に、少し照れくさそうに鼻をこすった。

「月見堂だけを、特別にしちゃだめでござる」

「え?」

「もちろん、月見堂は大事。でも、全部の本音が月見堂に来る必要はない。港町には港町の椅子があって、家の中には家の中の避難所がある。閉じる店にも、守るものがある」

画面の向こうで、ナツメの表情がやわらいだ。

「……そうね。月見堂が世界で唯一の避難所になったら、たぶん私たちが先に倒れる」

「無職仙人、遠隔で賢者っぽいこと言ったでござる」

「台無し」

ミナトが小さく吹き出し、ユカが空を見るみたいに窓へ目を向けた。

ナツメはうなずく。

「月見堂も、誰かの場所を増やすための一つでいい」

「そういうことでござる」

そのとき、港雨珈琲店の店主が閉店札を外しに来た。

サトルは通話を切り、扉のほうへ歩く。

店主は札を裏返し、細い油性ペンで何かを書いた。

サトルが覗き込むと、そこには小さな文字があった。

《また休みに来て》

閉店する店の札なのに、終わりの言葉ではなかった。

雨上がりの港に、白い月がうっすら浮かんでいる。

モチ丸が、満足げに鼻を鳴らした。

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