著者: 無職仙人
旅先の閉店札
「はたらきたくないでござる~!」
雨の港町に、サトルの声がふにゃりと溶けた。
濡れた石畳は黒飴みたいに光り、遠くで船の汽笛が低く鳴っている。冬の雨は細く、けれどしつこい。傘を持つサトルの横で、巨大白ウサギのモチ丸は、ある小さな店の前にどっしり座り込んでいた。
木枠の扉。曇ったガラス。軒先に揺れる、手書きの札。
《本日、閉店前の最後の営業です》
「……モチ丸氏。そこ、営業妨害でござるよ」
モチ丸は動かない。白い背中に雨粒を乗せたまま、じっと扉を見ている。
サトルはため息をつき、札の下に小さく書かれた店名を読んだ。
港雨珈琲店。
「名前からして休みたいでござるな」
そう言いながら、サトルは扉を押した。
店内は、雨音が似合う場所だった。
古い柱時計。二席だけのカウンター。窓際には、潮で色あせたクッション。月見堂よりさらに小さく、けれど誰かの背中をそっと預かってきた匂いがした。
「いらっしゃい」
カウンターの向こうで、白髪まじりの店主が微笑んだ。年齢はナツメよりずっと上だが、浜風食堂の老店主ほどではない。手の甲に細かな傷があり、長く働いてきた人の手だった。
「閉店、されるんでござるか」
「うん。今日でね」
店主はコーヒーを淹れながら、あっさりと言った。けれどその声の底に、雨より重いものが沈んでいるのを、サトルは聞き逃さなかった。
モチ丸は入口近くのマットの上で丸くなり、店の空気を壊さないように静かに鼻をひくつかせている。
「惜しまれる店っぽいでござる」
「惜しまれるほど、大きなことはしてないよ。ただ、疲れた人が雨宿りしていくだけの店」
「それ、めちゃくちゃ大きいでござるよ」
店主は少しだけ目を細めた。
カウンターの上には、砂糖壺があった。白い角砂糖の隙間に、ほんの数粒、銀色の粒が混じっている。
月砂糖に似ていた。
けれど、月見堂のものよりずっと粗く、不揃いで、まるで誰かがこぼした月明かりを拾い集めたみたいだった。
サトルの視線に気づき、店主は苦笑する。
「昔、旅の配達の子からもらったんだ。疲れた顔の客にだけ、一粒入れるといいって」
「銀髪三つ編み、濃紺ケープ?」
「さあ。雨の日だったから、顔はよく覚えてない。ただ、妙に仕事に厳しい子だったよ。『淹れる人が倒れたら意味がない』って」
「……あの配達少女、全国区でござったか」
サトルは思わず天井を見上げた。
雨漏りはしていない。けれど、この店もずっと誰かの雨を受け止めていたのだろう。
コーヒーは、少し薄めで、あたたかかった。
サトルが一口飲むと、店主はぽつりと言った。
「畳むのはね、売上のせいだけじゃないんだ」
「ほう」
「家族が、働けなくなった」
サトルの指が、カップの縁で止まる。
「病気というほど、簡単に名前がつくものでもなくてね。朝になると動けない。人の声が怖い。けれど本人は、働けない自分を一番責めてる」
雨音が、店内の沈黙を守るみたいに続いた。
「だから、店を続けている場合じゃないと思った。ここを開けていれば、誰かは救えるかもしれない。でも、家でひとり震えてる家族を置いてまでやることかって」
店主は笑った。申し訳なさそうな、でも少し楽になったような笑顔だった。
「この店は避難所だった。でも、今はうちの中に避難所が必要なんだ」
サトルは何も言えなかった。
月見堂のことが頭をよぎる。ナツメ。ユカ。ミナト。兄。白石。行列。札。守るための仕組み。
そして、守るために閉じる場所。
「閉めるの、逃げじゃないでござるな」
「逃げだよ」
店主はすぐに言った。
「でも、逃げてもいい逃げ方って、あるだろう?」
サトルはカップを両手で包んだ。
「……あるでござる」
その声は、いつものふざけた調子より少し低かった。

夕方、雨が弱くなった頃。
サトルは月見堂へビデオ通話をつないだ。画面の向こうでは、ナツメがカウンターを拭き、ユカが本音ノートを閉じ、ミナトが黒い煤のついた紙片を封筒にしまっている。
「どうしたの。そっちは雨?」
ナツメが尋ねる。
「雨。そして閉店札。そしてモチ丸氏が入口を占拠」
画面の端でモチ丸が耳だけ映り、ユカが小さく笑った。
サトルは、港雨珈琲店のことを話した。閉店する理由。働けない家族。砂糖壺の銀の粒。雨宿りしてきた人たち。
ナツメは黙って聞いていた。
サトルは最後に、少し照れくさそうに鼻をこすった。
「月見堂だけを、特別にしちゃだめでござる」
「え?」
「もちろん、月見堂は大事。でも、全部の本音が月見堂に来る必要はない。港町には港町の椅子があって、家の中には家の中の避難所がある。閉じる店にも、守るものがある」
画面の向こうで、ナツメの表情がやわらいだ。
「……そうね。月見堂が世界で唯一の避難所になったら、たぶん私たちが先に倒れる」
「無職仙人、遠隔で賢者っぽいこと言ったでござる」
「台無し」
ミナトが小さく吹き出し、ユカが空を見るみたいに窓へ目を向けた。
ナツメはうなずく。
「月見堂も、誰かの場所を増やすための一つでいい」
「そういうことでござる」
そのとき、港雨珈琲店の店主が閉店札を外しに来た。
サトルは通話を切り、扉のほうへ歩く。
店主は札を裏返し、細い油性ペンで何かを書いた。
サトルが覗き込むと、そこには小さな文字があった。
《また休みに来て》
閉店する店の札なのに、終わりの言葉ではなかった。
雨上がりの港に、白い月がうっすら浮かんでいる。
モチ丸が、満足げに鼻を鳴らした。