著者: 無職仙人
普通の店でいるために
「はたらきたくないでござる~!」
開店前の月見堂に、タブレット越しのサトルの声が響いた。
いつもならナツメが「はいはい」と流すところだが、今日は返事が少し遅れた。
白い月の影が、開店前の窓に薄い煤を落としていた。
ガラスの向こうには、まだ看板も出していないというのに、数人の影が並んでいる。取材依頼の封筒。行政申請の修正版。企業からの連絡票。善意めいた手紙。すべてがカウンターの隅で、静かに黒い粉をまとっていた。
「……今日から、席を減らす」
ナツメはカップを拭きながら言った。
ユカが顔を上げる。
「席、ですか?」
「四席だけ。受付は午前二時間、午後二時間。本音ノートは一人一枚。返事は後日になることもある。月砂糖入りは、必要な人に一杯だけ」
「でも、外の人たち……」
ユカの声が揺れた。助けたい気持ちと、もう助けきれない現実が、細い糸みたいに絡まっている。
ミナトはノートに数字を書き込んだ。
「昨日より煤の発生量、増えてます。特に“まだ読んでない期待”から出てる」
「期待から煤が出る時代、世知辛すぎるでござるなぁ」
画面のサトルは、モチ丸の腹に半分埋もれながら笑った。けれど目は笑っていない。
「月見堂は神殿じゃない。普通の店でござる。普通の店は、席が埋まったら満席。店主が疲れたら休む」
ナツメは小さくうなずき、入口の札を書き換えた。
本日の受付:四席のみ。待てない方は、どうか別の日に。
その文字の上に、煤がふわりと降りたが、今度はユカがそっと息を吹きかけた。
「……消えませんね」
「消えなくていい」
ナツメは札を立てる。
「煤がついても、出す」

昼前、商店街の角から黒いワゴン車が停まった。
降りてきたのは、揃いのコートを着た男女三人。胸元には、誰もが一度はネット広告で見たことのある有名支援団体のロゴが光っている。
代表らしき男性が、にこやかに名刺を差し出した。
「月見堂さんの理念に深く共感しています。ぜひ次の満月に、当団体主催で“貸切救済イベント”を開催したいのです」
その言葉に、外の行列がざわめいた。
「貸切……?」 「じゃあ、もっとたくさん入れる?」 「有名な団体なら安心かも」 「救ってもらえるのかな」
ざわめきは、冬の風より冷たく店内へ入り込んだ。
男性は続ける。
「席数を増やし、スタッフもこちらで用意します。取材も入れれば、支援の輪が広がる。月砂糖の提供もイベント化して――」
「しません」
ナツメの声は、驚くほど静かだった。
男性の笑顔が固まる。
「……まだ条件も」
「聞かなくてもわかります。ここは、一杯のコーヒーの店です」
ナツメはカウンターの内側に立ったまま、行列の人たちにも聞こえるように言った。
「誰かを一気に救う場所じゃない。苦しい人が、椅子に座って、湯気を見て、言えるなら一言だけ本音を置いていく場所です。貸切救済イベントはできません」
「しかし、社会的需要が――」
「需要で椅子は増やしません」
きっぱりとした言葉に、店内の煤が一瞬だけ動きを止めた。
ユカは胸元の本音ノートを抱きしめる。ミナトは震える指で、記録欄に大きく丸をつけた。
サトルが画面の向こうで、ぽつりと言う。
「ナツメ氏、いまのは店主レベルが上がった音がしたでござる」
「うるさい」
そう返すナツメの口元には、ほんの少しだけ笑みがあった。

そのとき、裏口の鈴が鳴った。
銀髪三つ編みの配達少女が、濃紺のケープについた雪を払って立っていた。
「満月便。臨時伝票」
差し出された伝票には、いつもの銀の三日月印があった。けれど、次の満月の日付だけ、赤い丸で強く押されている。
ミナトが息をのむ。
「赤……初めて見ます」
少女は淡々と言った。
「次の満月、期待が集まる。煤も集まる。砂糖は足りる。でも、人は足りない」
「つまり?」
ナツメが問う。
「増やさないで。減らして。守って」
短い言葉だけ残し、少女は裏口の向こうへ消えた。
赤い印は、紙の上で小さく熱を持っているように見えた。
ナツメは伝票を見つめ、それから外の行列へ視線を移す。
待っている人がいる。困っている人がいる。期待している人がいる。
だからこそ、全部は受け取らない。
「本日、四席だけです」
ナツメは扉を開けて言った。
「入れなかった人を、見捨てたいわけじゃありません。でも、ここを続けるために、今日は四席だけです」
行列の先頭にいた女性が、長い沈黙のあとでうなずいた。
「……明日、また来ます」
その一言に、ユカの肩から力が抜けた。
月見堂は、救済会場ではない。
古びた床がきしむ、小さな喫茶店だ。
一杯ずつ淹れるしかできない店だ。
そしてナツメは今日、その小ささを守ると決めた。
閉店後。
店内の灯りを落とすと、窓に映った白い月が薄く滲んだ。
ナツメは四席分のカップを洗い終え、深く息を吐く。
「……疲れた」
「言えましたね」
ユカが微笑む。
ミナトも小さくうなずいた。
「今日の煤、後半は少し減りました」
タブレットの中でサトルが、モチ丸の耳を布団代わりにしながら親指を立てる。
「普通の店、えらい」
ナツメは苦笑して、入口の鍵をかけようとした。
そのとき、郵便受けが、かたん、と鳴った。
一通。
また一通。
さらに、もう一通。
落ちてきた封筒には、昼間断ったはずの団体名が印刷されていた。
貸切救済イベント企画書・再送
共同開催のご提案
満月特別支援プロジェクト案
ナツメの指先に、黒い煤がついた。
外では白い月が、まだ昼のような顔で夜空に浮かんでいる。
断ったはずの期待は、何通も何通も、月見堂のポストへ戻ってきていた。