著者: 無職仙人
兄の現実的な盾
「はたらきたくないでござる~!」 ……という声が聞こえた気がした
黒い煤のついた指先を見つめたまま、ナツメがぽつりと呟いた瞬間だった。
真面目なスーツの兄が、厚い資料を抱えて再び戸を開けた。
冬の夜気が、カラン、と鈴を鳴らして店内へ滑り込む。外の白い月は相変わらず昼みたいに薄明るく、ポストからあふれた封筒の山を、妙に冷たい色で照らしていた。
兄はその封筒を一瞥し、眉間に深い皺を寄せた。
「……断った相手から、またですか」
「うん。企画書、協賛案、共同声明案。あと、“あなたたちなら受けてくれると思いました”って手紙」
ユカが疲れた声で答える。ミナトはカウンターの端で煤の量を記録していたが、ペン先が震えていた。
兄は資料をテーブルに置くと、上着を脱がずに言った。
「明日、私がまとめて会います。企業、行政、支援団体。こちらの条件を文書で出します」
ナツメは警戒を隠さず、彼を見た。
「月見堂を大きくするためじゃないですよね?」
兄は静かに頷いた。
「小さく保つためです」
その言葉に、店内の煤がほんの少しだけ落ちる速度をゆるめた。

翌日、月見堂の奥席は即席の会議室になった。
遠野は眼鏡の奥で資料を光らせ、白石は役所のファイルを胸に抱え、支援団体の担当者は柔らかな笑顔を崩さない。画面の向こうでは、サトルが旅先の宿から参加していた。背後でモチ丸が白い山のように丸まり、時々サトルの肩を押している。
兄は分厚い資料を開いた。
「まず前提です。月見堂は相談機関ではありません。研修施設でも、支援実績を出す拠点でもありません。喫茶店です」
支援団体の担当者が困ったように笑う。
「ですが、実際に救われている方がいます。ならば、より多くの方へ――」
「その“より多く”が、すでに店を壊しかけています」
兄の声は硬かった。
「本音ノートは提出しない。月砂糖は配布しない。受付数は店が決める。休業日は絶対に侵害しない。これが守れない提携は受けません」
遠野が小さく息を吐く。
「しかし、職場側も変わりたいんです。御店のノウハウを共有していただければ、従業員の離職率改善にも――」
「違います」
兄は、初めて少し声を荒らげた。
「月見堂を制度化する前に、あなた方の職場を変えてください。残業を減らす。休職を責めない。相談した社員を評価で不利にしない。上司が“がんばれ”で押し切らない。外の職場が変わらないまま、月見堂を出口にするな」
会議室の空気が凍った。
画面の向こうで、サトルが目を細める。
「兄上、今日は切れ味が業務用包丁でござるな……」
けれど兄は笑わなかった。
「私は昔、弟に言いました。“半年で辞めるなんて情けない”と」
ナツメが息を呑む。
兄の指が、資料の端を強く押さえた。
「詳しい事情も聞かずに。顔色も、眠れていないことも、手が震えていたことも見ていたのに。私は“社会では皆やっている”と言った。……私も、弟を追い詰めた側です」
白石が、ファイルを抱える手に力を込めた。
遠野は何か言いかけて、口を閉じた。
サトルは画面の中で、ふざけた表情を作れないまま、ただ視線を落としていた。モチ丸がそっと彼の背中に顔を寄せる。
兄は深く頭を下げた。
「だから、月見堂を便利な避難口として使わせるわけにはいきません。ここを増やす前に、壊さない職場を増やしてください。提携したいなら、成果物ではなく、そちらの改善計画を提出してください」
黒い煤が、会議机の上でふわりと揺れた。
まるで、行き場を失った期待が、初めて行き先を変えられたみたいに。

会議が終わる頃、外の白い月は薄雲に隠れかけていた。
支援団体は提案を取り下げ、遠野は「社内に持ち帰ります」とだけ言った。白石は、月見堂の休業日を市の案内にも明記する約束をして帰っていった。
店内に残ったのは、冷めたコーヒーと、少し薄くなった煤と、深い疲労だった。
兄は資料を鞄に戻す。その拍子に、一枚の古い名刺が床へ滑り落ちた。
ナツメが拾い上げる。
そこには、サトルがかつて勤めていた会社名が印刷されていた。
兄は一瞬だけ表情を凍らせ、すぐに受け取った。
「……これは、まだ」
「サトルさんが話す時まで?」
ナツメが尋ねると、兄は静かに頷いた。
画面の向こうのサトルは、聞こえていたのかいないのか、モチ丸の毛に顔を埋めていた。
「兄上」
くぐもった声がした。
「今日の働きぶり、ブラック兄上にならぬよう、ちゃんと休むでござるよ」
兄は初めて、少しだけ笑った。
「お前に言われる日が来るとはな」
ナツメはカウンターの内側から、兄に月砂糖入りではない普通のコーヒーを出した。
「今日は、これで。盾にも休憩が必要です」
兄はカップを見つめた。
「盾は、立っていればいいと思っていました」
「立ちっぱなしの盾は、いつか倒れます」
ナツメの言葉に、ユカが小さく頷いた。ミナトは煤の記録帳に、今日の欄へこう書き込む。
“期待の向きが、少し外へ返された。”
兄はコーヒーを一口飲み、肩の力を抜いた。
ナツメは感謝していた。確かに、彼は現実の盾だった。書類の言葉で、会議の場で、月見堂の小ささを守ってくれた。
けれど同時に悟る。
盾の重さもまた、人を疲れさせる。
白い月の影が薄れた窓辺で、ナツメは新しい札の文面を考えた。
――月見堂を守る人も、休みます。
それはきっと、次に守るべき約束だった。