著者: 無職仙人
「ユカの交代表」
ユカの笑顔は整っていたが、本音ノートを持つ手が震えた。
冬の午後、月見堂の窓には白い月が薄く映り、ガラス越しの商店街は静かだった。昨日より封筒の山は低くなった。兄が現実の盾になってくれたおかげで、煤の降り方も少しだけ遅い。
それなのに、ユカの胸の奥では、細い糸がずっと張りつめていた。
「ユカさん、次のお客さん、四番席へ案内できる?」
ナツメの声に、ユカはぱっと顔を上げた。
「はい、大丈夫です」
その返事は、我ながら驚くほど明るかった。
大丈夫。好きで手伝っているんだから。
そう思うたび、指先が冷たくなる。
本音ノートの角に、黒い煤がひとつ落ちた。ユカは慌てて袖で払った。払ったつもりだった。でも煤は、紙ではなく自分の手の甲に薄く残った。

午後三時。受付終了の札を出したあとも、店内には預かった言葉の余韻が残っていた。
「今日はこれ、先に見てもらえますか」
ミナトがカウンターへ、黒い付箋の束を置いた。
それは本音ノートから剥がれ落ちた煤ではない。ネットの言葉、届いた手紙の端、誰にも読まれないまま黒く縮れた期待。それらをミナトが分類したものだった。
“助けてくれるんですよね”
“断られると困ります”
“あなたたちなら受け止めて当然”
文字は静かに並んでいるだけなのに、ユカの喉がきゅっと狭くなった。
「……私、整理します」
反射のように手を伸ばした瞬間、ミナトが付箋束を引いた。
「だめです」
「え?」
ミナトは少し気まずそうに視線を落とした。それでも、言葉は引っ込めなかった。
「ユカさん、今日ずっと笑い方が同じです。ぼくが炎上させた時の、自分を責めている時の顔に似ています」
「そんなこと……」
「あります」
ミナトの声は小さかった。けれど、逃げ道をふさぐ硬さではなく、倒れる前に差し出される手の硬さだった。
ナツメもコーヒーポットを置き、ユカを見た。
「ユカさん。今、休みたい?」
その質問だけで、なぜか目の奥が熱くなった。
「……わかりません」
ユカは笑おうとした。けれど、頬がうまく動かなかった。
「休みたいって言ったら、ナツメさんの負担が増える気がして。ミナトさんにも、兄さんにも。私、助けてもらった側なのに、今さら助けてって言うの、ずるい気がして」
店内の空気が、少しだけやわらいだ。
ナツメは短く息を吐く。
「助けてもらった人が、助けてって言えない場所にしたら、月見堂は終わりです」
その言葉は厳しかった。でも、ユカの肩に乗っていた見えない荷物を、少しだけ床へ下ろしてくれた。
ユカはポケットから白紙のメモを取り出した。
受付の順番や、買い出しの品を書こうとして、結局何も書けなかった紙だ。真っ白なままのメモの中央に、ふわりと黒い煤が落ちた。
煤は散らばらず、細い文字になった。
休ませて
ユカは息を呑んだ。
それは誰かの本音ではなかった。たぶん、自分のものだった。
「……私、これ、書いた覚えないです」
「本音ノートは無自覚な本音も浮かび上がらせることがある」
ミナトが記録帳を開きながら言った。
「でも今日は、ノートじゃなくてメモに出た。ユカさんが、もうノートに預ける前にこぼれそうだったんだと思います」
ユカは両手でメモを持った。震えは、隠しきれなかった。
ナツメが棚から一枚の紙を出す。昨日、考えかけていた新しい札の下書き。その裏は空いていた。
「交代表、作ろう」
「交代……表?」
「誰が聞くか。誰が返事を書くか。誰が珈琲を淹れるか。誰が休むか。そこに、ちゃんと名前を書く」
ユカはペンを受け取った。
紙の上に、四つの欄を作る。
受付
返事
珈琲
休む人
最初の三つはすぐ埋められた。けれど最後の欄で、ペン先が止まる。
私が休んだら、誰かが困る。
そう思った瞬間、白紙メモの「休ませて」が、少し濃くなった。
ユカは唇を噛み、ゆっくり書いた。
十五時三十分〜十五時四十分 ユカ、何もしない
文字にしただけで、心臓が大げさに鳴った。
「……これで、いいですか」
ナツメはその交代表を受け取り、しばらく眺めた。それから自分の名前も書き足した。
閉店後十分 ナツメ、何もしない
「私にも渡して」
「はい」
ユカはもう一枚、同じ交代表を作った。ナツメ用。ミナト用。兄用の欄も空けておく。
窓の外の白い月が、ほんの少し雲に隠れた。

閉店後、月見堂の灯りは半分だけ落とされた。
カップも洗い終えた。封筒の山には布をかけた。本音ノートは棚にしまった。月砂糖の瓶は、黒い粒を避けるように静かに眠っている。
ナツメとユカは、四番席に向かい合って座った。
「十分、何もしない」
ナツメが宣言する。
「はい。何もしません」
そう言ってから、ユカはそわそわと手を動かしかけた。テーブルの端に残った小さな水滴が気になる。椅子の向きも気になる。明日の受付札も――。
「ユカさん」
「はい」
「何もしない」
「……はい」
二人は黙った。
秒針の音だけが、店内を歩いていく。外では風が看板を小さく揺らし、カラン、と鳴るはずの鈴は鳴らない。誰も来ない。誰も呼ばない。誰の本音も、今は預からない。
最初の一分は、怖かった。
三分経つと、息が少し深くなった。
七分を過ぎる頃、ユカは窓に映る自分の顔が、いつもの整った笑顔ではないことに気づいた。疲れていて、少し情けなくて、でも本当の顔だった。
「ナツメさん」
「うん」
「休むって、練習がいりますね」
「うん。かなりいる」
二人は小さく笑った。
十分後、ナツメは交代表の「何もしない」に丸をつけた。黒い煤は降らなかった。
ユカの白紙メモの文字は、まだ消えていない。
けれどその横に、ユカは自分の手で書き足した。
休みました。次も、言います。
月見堂を守る人も、休む。
その約束は、まだ頼りない線だったけれど、今夜はたしかに、紙の上に残った。
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