本文へスキップ
第28話: 「ユカの交代表」

無職仙人の話

著者: 無職仙人

「ユカの交代表」

ユカの笑顔は整っていたが、本音ノートを持つ手が震えた。

冬の午後、月見堂の窓には白い月が薄く映り、ガラス越しの商店街は静かだった。昨日より封筒の山は低くなった。兄が現実の盾になってくれたおかげで、煤の降り方も少しだけ遅い。

それなのに、ユカの胸の奥では、細い糸がずっと張りつめていた。

「ユカさん、次のお客さん、四番席へ案内できる?」

ナツメの声に、ユカはぱっと顔を上げた。

「はい、大丈夫です」

その返事は、我ながら驚くほど明るかった。

大丈夫。好きで手伝っているんだから。

そう思うたび、指先が冷たくなる。

本音ノートの角に、黒い煤がひとつ落ちた。ユカは慌てて袖で払った。払ったつもりだった。でも煤は、紙ではなく自分の手の甲に薄く残った。

挿絵 slot1

午後三時。受付終了の札を出したあとも、店内には預かった言葉の余韻が残っていた。

「今日はこれ、先に見てもらえますか」

ミナトがカウンターへ、黒い付箋の束を置いた。

それは本音ノートから剥がれ落ちた煤ではない。ネットの言葉、届いた手紙の端、誰にも読まれないまま黒く縮れた期待。それらをミナトが分類したものだった。

“助けてくれるんですよね”
“断られると困ります”
“あなたたちなら受け止めて当然”

文字は静かに並んでいるだけなのに、ユカの喉がきゅっと狭くなった。

「……私、整理します」

反射のように手を伸ばした瞬間、ミナトが付箋束を引いた。

「だめです」

「え?」

ミナトは少し気まずそうに視線を落とした。それでも、言葉は引っ込めなかった。

「ユカさん、今日ずっと笑い方が同じです。ぼくが炎上させた時の、自分を責めている時の顔に似ています」

「そんなこと……」

「あります」

ミナトの声は小さかった。けれど、逃げ道をふさぐ硬さではなく、倒れる前に差し出される手の硬さだった。

ナツメもコーヒーポットを置き、ユカを見た。

「ユカさん。今、休みたい?」

その質問だけで、なぜか目の奥が熱くなった。

「……わかりません」

ユカは笑おうとした。けれど、頬がうまく動かなかった。

「休みたいって言ったら、ナツメさんの負担が増える気がして。ミナトさんにも、兄さんにも。私、助けてもらった側なのに、今さら助けてって言うの、ずるい気がして」

店内の空気が、少しだけやわらいだ。

ナツメは短く息を吐く。

「助けてもらった人が、助けてって言えない場所にしたら、月見堂は終わりです」

その言葉は厳しかった。でも、ユカの肩に乗っていた見えない荷物を、少しだけ床へ下ろしてくれた。


ユカはポケットから白紙のメモを取り出した。

受付の順番や、買い出しの品を書こうとして、結局何も書けなかった紙だ。真っ白なままのメモの中央に、ふわりと黒い煤が落ちた。

煤は散らばらず、細い文字になった。

休ませて

ユカは息を呑んだ。

それは誰かの本音ではなかった。たぶん、自分のものだった。

「……私、これ、書いた覚えないです」

「本音ノートは無自覚な本音も浮かび上がらせることがある」

ミナトが記録帳を開きながら言った。

「でも今日は、ノートじゃなくてメモに出た。ユカさんが、もうノートに預ける前にこぼれそうだったんだと思います」

ユカは両手でメモを持った。震えは、隠しきれなかった。

ナツメが棚から一枚の紙を出す。昨日、考えかけていた新しい札の下書き。その裏は空いていた。

「交代表、作ろう」

「交代……表?」

「誰が聞くか。誰が返事を書くか。誰が珈琲を淹れるか。誰が休むか。そこに、ちゃんと名前を書く」

ユカはペンを受け取った。

紙の上に、四つの欄を作る。

受付
返事
珈琲
休む人

最初の三つはすぐ埋められた。けれど最後の欄で、ペン先が止まる。

私が休んだら、誰かが困る。

そう思った瞬間、白紙メモの「休ませて」が、少し濃くなった。

ユカは唇を噛み、ゆっくり書いた。

十五時三十分〜十五時四十分 ユカ、何もしない

文字にしただけで、心臓が大げさに鳴った。

「……これで、いいですか」

ナツメはその交代表を受け取り、しばらく眺めた。それから自分の名前も書き足した。

閉店後十分 ナツメ、何もしない

「私にも渡して」

「はい」

ユカはもう一枚、同じ交代表を作った。ナツメ用。ミナト用。兄用の欄も空けておく。

窓の外の白い月が、ほんの少し雲に隠れた。

挿絵 slot2

閉店後、月見堂の灯りは半分だけ落とされた。

カップも洗い終えた。封筒の山には布をかけた。本音ノートは棚にしまった。月砂糖の瓶は、黒い粒を避けるように静かに眠っている。

ナツメとユカは、四番席に向かい合って座った。

「十分、何もしない」

ナツメが宣言する。

「はい。何もしません」

そう言ってから、ユカはそわそわと手を動かしかけた。テーブルの端に残った小さな水滴が気になる。椅子の向きも気になる。明日の受付札も――。

「ユカさん」

「はい」

「何もしない」

「……はい」

二人は黙った。

秒針の音だけが、店内を歩いていく。外では風が看板を小さく揺らし、カラン、と鳴るはずの鈴は鳴らない。誰も来ない。誰も呼ばない。誰の本音も、今は預からない。

最初の一分は、怖かった。

三分経つと、息が少し深くなった。

七分を過ぎる頃、ユカは窓に映る自分の顔が、いつもの整った笑顔ではないことに気づいた。疲れていて、少し情けなくて、でも本当の顔だった。

「ナツメさん」

「うん」

「休むって、練習がいりますね」

「うん。かなりいる」

二人は小さく笑った。

十分後、ナツメは交代表の「何もしない」に丸をつけた。黒い煤は降らなかった。

ユカの白紙メモの文字は、まだ消えていない。

けれどその横に、ユカは自分の手で書き足した。

休みました。次も、言います。

月見堂を守る人も、休む。

その約束は、まだ頼りない線だったけれど、今夜はたしかに、紙の上に残った。

シェア X で投稿

ほかの連載

読み終わったら、同じサイトの別作品もどうぞ。

僕の仕事を奪うはずのAIが、なぜか人類最後の希望になった

僕の仕事を奪うはずのAIが、なぜか人類最後の希望になった

冒険 連載中

仕事を奪うはずのAIが、なぜか人類最後の希望になるSF連載。監査核、非認可の星、コードレビューの先にある祈りを描く。連載小説館で無料。

7話

コメント (0)

投稿フォームを開くと、この端末でセッションが開始されます。

この連載を購読する

新しい話が公開されたとき、メールでお知らせします。