著者: 無職仙人
「満月便の古い声」
「はたらきたくないでござる~!」
翌朝、タブレット越しのサトルの声は、いつもより半拍遅れて月見堂に届いた。
画面の端では、巨大白ウサギのモチ丸がサトルの肩に前足を乗せている。サトルは潰れかけながらも、妙に真面目な顔で言った。
「昨日、休めたでござるか?」
「十分だけね」
ナツメが答えると、カウンターの隅に置かれた交代表が、朝の光を受けて白く光った。
休みました。次も、言います。
ユカの文字は少し震えていたけれど、消えてはいなかった。
そのときだった。
裏口のベルが、いつもの澄んだ音ではなく、焦ったように二度鳴った。
「……臨時便です」
銀髪の少女は、珍しく息を切らして立っていた。
濃紺のケープには細かな霜がつき、三つ編みの先から水滴が落ちている。胸元に抱えた木箱は小さい。けれど、ふたの隙間から、淡い銀色の光がこぼれていた。

「満月便さん……?」
ユカが立ち上がりかけると、少女は片手で制した。
「座っていて。休む人は、立たない」
相変わらず淡々とした声。
けれど、その語尾が、ほんの一瞬だけかすれた。
ナツメは気づいた。ミナトも気づいたらしく、黒い付箋を整理していた手を止める。
少女は木箱をカウンターに置いた。中には月砂糖の瓶が三つ。いつもより少ない。瓶の底には、銀の粒と、ほんのわずかな黒い粒が混じっていた。
「砂糖は足りる。でも、人は足りない。だから、説明に来た」
「説明?」
ナツメが聞き返すと、少女は小さくうなずいた。
「満月便のこと。月砂糖のこと。誤解が増える前に」
店内に、冬の朝の静けさが降りた。
コーヒーミルも、湯気の立つポットも、今日は音を控えているみたいだった。
少女はケープの前を少しだけ開いた。その内側に、古びた布の名札が縫いつけられていた。
文字は擦れていて、読めるのは一部だけ。
――旧音声交換班。
ミナトが息をのむ。
「それ、配達会社の名札じゃ……ないですね」
「昔の名前。今は、ほとんど使わない」
少女は指先で名札を押さえた。
「満月便は、最初から不思議な配達屋だったわけじゃない。働きすぎて、声を失いかけた人たちがいた。言いたいことを飲み込んで、謝って、笑って、また謝って……最後に、自分の声がどこにあるかわからなくなった人たち」
ユカの肩が小さく揺れた。
ナツメは何も言わず、ただカップを一つ、少女の前に置いた。
少女は続けた。
「その人たちが、紙に書いた。『今日は無理』『帰りたい』『助けてと言うのが怖い』。誰かがそれを読んで、否定しなかった。返事は短くてよかった。『そうなんだ』『置いていっていい』『全部言わなくていい』」
サトルが画面の向こうで、珍しく黙っていた。
モチ丸だけが、ふすん、と鼻を鳴らす。
「それが満月便のはじまり。声を失いかけた人同士が、少しずつ声を預け合った。月砂糖は、そのときのお茶に入れた砂糖。特別な薬じゃない。治す力も、働かせ続ける力もない」
少女は瓶を軽く叩いた。
ちりん、と小さな音がした。
「これは合図。ここでは、本音を否定しない。ここでは、急かさない。ここでは、預かる人も壊れないようにする。そういう儀式のためのもの」

「儀式……」
ユカがつぶやく。
ナツメはその言葉を、胸の奥でゆっくり噛みしめた。
たしかに月砂糖を入れると、客は少し呼吸を取り戻す。でも、それは砂糖だけの力ではなかった。椅子があり、カップがあり、聞く人がいて、沈黙が許される時間があったからだ。
ミナトがノートを開き、慎重に書いた。
月砂糖=薬ではない。否定しない場のしるし。
すると、ページの端に積もっていた黒い煤が、ほんの少しだけ薄くなった。
「じゃあ、黒い煤は?」
ナツメが尋ねる。
少女は一瞬、答えに迷ったように目を伏せた。
「飲み込まれた言葉。読まれなかった期待。誰かに押しつけられた『救って』。それらが、見える場所に集まる。月見堂は作っているんじゃない。見えてしまう場所になった」
「見えてしまう……」
「だから危ない。見える人は、拾おうとする。優しい人ほど、全部」
少女の視線が、ナツメ、ユカ、ミナトを順に見た。
最後に、画面の中のサトルへ向く。
「あなたも」
サトルは苦笑した。
「拙者、無職仙人ゆえ、労働からは逃げ足が速いでござるよ?」
「逃げ足が速い人ほど、戻って拾う」
その言葉に、サトルは何も返さなかった。
店の外では、昼前だというのに白い月が薄く浮かんでいた。満月には、まだ少し早い。それなのに、月見堂の窓辺には冷たい光が差し込み、封筒の山の影を長く伸ばしている。
少女は木箱の底から、一枚の赤印伝票を取り出した。
そこには細い字で書かれていた。
満月夜、集中注意。受け取り制限必須。
「満月の夜、本音が増える。期待も増える。煤も増える」
ナツメは伝票を受け取った。
紙は冷たかった。まるで、雪を一枚だけ切り取ったみたいに。
「どうすればいい?」
少女は即答した。
「増やさない。延長しない。特別対応しない。満月だからこそ、閉める時間を守る」
ユカが不安そうに唇を結ぶ。
「でも、外に待っている人がいたら……」
「待っている人のために、店を壊さない」
少女の声は静かだった。けれど、今度ははっきりとかすれた。
ナツメは思わず言った。
「あなた、休んでる?」
少女は少し目を丸くした。
それから、ほんのわずかに笑った。
「配達人にも、休憩表はある」
「本当?」
「……ある。守られているかは、別」
ミナトがすかさずノートに書く。
満月便にも交代表が必要。
少女はその文字を見て、困ったように眉を下げた。
「余計なことを」
「月見堂の得意分野です」
ナツメが言うと、少女は今度こそ小さく息を吐いた。
帰り際、少女は裏口の前で振り返った。
濃紺のケープが冬の風に揺れる。内側の古い名札は、もう見えなかった。
「満月の夜」
彼女は言った。
「全部預かろうとしないで」
その声は、古い紙をめくるみたいに少しかすれていた。
「預かれなかった本音にも、行き先はある。月見堂だけじゃない。だから――守って」
扉が閉まると、銀色の霜だけが床に残った。
ナツメは赤印伝票を交代表の隣に置いた。
ユカが、そっとペンを取る。
そして空白だった欄の下に、小さく書き足した。
満月の日:預からない時間を、先に決める。
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