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第29話: 「満月便の古い声」

無職仙人の話

著者: 無職仙人

「満月便の古い声」

「はたらきたくないでござる~!」

翌朝、タブレット越しのサトルの声は、いつもより半拍遅れて月見堂に届いた。

画面の端では、巨大白ウサギのモチ丸がサトルの肩に前足を乗せている。サトルは潰れかけながらも、妙に真面目な顔で言った。

「昨日、休めたでござるか?」

「十分だけね」

ナツメが答えると、カウンターの隅に置かれた交代表が、朝の光を受けて白く光った。

休みました。次も、言います。

ユカの文字は少し震えていたけれど、消えてはいなかった。

そのときだった。

裏口のベルが、いつもの澄んだ音ではなく、焦ったように二度鳴った。

「……臨時便です」

銀髪の少女は、珍しく息を切らして立っていた。

濃紺のケープには細かな霜がつき、三つ編みの先から水滴が落ちている。胸元に抱えた木箱は小さい。けれど、ふたの隙間から、淡い銀色の光がこぼれていた。

挿絵 slot1

「満月便さん……?」

ユカが立ち上がりかけると、少女は片手で制した。

「座っていて。休む人は、立たない」

相変わらず淡々とした声。

けれど、その語尾が、ほんの一瞬だけかすれた。

ナツメは気づいた。ミナトも気づいたらしく、黒い付箋を整理していた手を止める。

少女は木箱をカウンターに置いた。中には月砂糖の瓶が三つ。いつもより少ない。瓶の底には、銀の粒と、ほんのわずかな黒い粒が混じっていた。

「砂糖は足りる。でも、人は足りない。だから、説明に来た」

「説明?」

ナツメが聞き返すと、少女は小さくうなずいた。

「満月便のこと。月砂糖のこと。誤解が増える前に」

店内に、冬の朝の静けさが降りた。

コーヒーミルも、湯気の立つポットも、今日は音を控えているみたいだった。

少女はケープの前を少しだけ開いた。その内側に、古びた布の名札が縫いつけられていた。

文字は擦れていて、読めるのは一部だけ。

――旧音声交換班。

ミナトが息をのむ。

「それ、配達会社の名札じゃ……ないですね」

「昔の名前。今は、ほとんど使わない」

少女は指先で名札を押さえた。

「満月便は、最初から不思議な配達屋だったわけじゃない。働きすぎて、声を失いかけた人たちがいた。言いたいことを飲み込んで、謝って、笑って、また謝って……最後に、自分の声がどこにあるかわからなくなった人たち」

ユカの肩が小さく揺れた。

ナツメは何も言わず、ただカップを一つ、少女の前に置いた。

少女は続けた。

「その人たちが、紙に書いた。『今日は無理』『帰りたい』『助けてと言うのが怖い』。誰かがそれを読んで、否定しなかった。返事は短くてよかった。『そうなんだ』『置いていっていい』『全部言わなくていい』」

サトルが画面の向こうで、珍しく黙っていた。

モチ丸だけが、ふすん、と鼻を鳴らす。

「それが満月便のはじまり。声を失いかけた人同士が、少しずつ声を預け合った。月砂糖は、そのときのお茶に入れた砂糖。特別な薬じゃない。治す力も、働かせ続ける力もない」

少女は瓶を軽く叩いた。

ちりん、と小さな音がした。

「これは合図。ここでは、本音を否定しない。ここでは、急かさない。ここでは、預かる人も壊れないようにする。そういう儀式のためのもの」

挿絵 slot2

「儀式……」

ユカがつぶやく。

ナツメはその言葉を、胸の奥でゆっくり噛みしめた。

たしかに月砂糖を入れると、客は少し呼吸を取り戻す。でも、それは砂糖だけの力ではなかった。椅子があり、カップがあり、聞く人がいて、沈黙が許される時間があったからだ。

ミナトがノートを開き、慎重に書いた。

月砂糖=薬ではない。否定しない場のしるし。

すると、ページの端に積もっていた黒い煤が、ほんの少しだけ薄くなった。

「じゃあ、黒い煤は?」

ナツメが尋ねる。

少女は一瞬、答えに迷ったように目を伏せた。

「飲み込まれた言葉。読まれなかった期待。誰かに押しつけられた『救って』。それらが、見える場所に集まる。月見堂は作っているんじゃない。見えてしまう場所になった」

「見えてしまう……」

「だから危ない。見える人は、拾おうとする。優しい人ほど、全部」

少女の視線が、ナツメ、ユカ、ミナトを順に見た。

最後に、画面の中のサトルへ向く。

「あなたも」

サトルは苦笑した。

「拙者、無職仙人ゆえ、労働からは逃げ足が速いでござるよ?」

「逃げ足が速い人ほど、戻って拾う」

その言葉に、サトルは何も返さなかった。

店の外では、昼前だというのに白い月が薄く浮かんでいた。満月には、まだ少し早い。それなのに、月見堂の窓辺には冷たい光が差し込み、封筒の山の影を長く伸ばしている。

少女は木箱の底から、一枚の赤印伝票を取り出した。

そこには細い字で書かれていた。

満月夜、集中注意。受け取り制限必須。

「満月の夜、本音が増える。期待も増える。煤も増える」

ナツメは伝票を受け取った。

紙は冷たかった。まるで、雪を一枚だけ切り取ったみたいに。

「どうすればいい?」

少女は即答した。

「増やさない。延長しない。特別対応しない。満月だからこそ、閉める時間を守る」

ユカが不安そうに唇を結ぶ。

「でも、外に待っている人がいたら……」

「待っている人のために、店を壊さない」

少女の声は静かだった。けれど、今度ははっきりとかすれた。

ナツメは思わず言った。

「あなた、休んでる?」

少女は少し目を丸くした。

それから、ほんのわずかに笑った。

「配達人にも、休憩表はある」

「本当?」

「……ある。守られているかは、別」

ミナトがすかさずノートに書く。

満月便にも交代表が必要。

少女はその文字を見て、困ったように眉を下げた。

「余計なことを」

「月見堂の得意分野です」

ナツメが言うと、少女は今度こそ小さく息を吐いた。


帰り際、少女は裏口の前で振り返った。

濃紺のケープが冬の風に揺れる。内側の古い名札は、もう見えなかった。

「満月の夜」

彼女は言った。

「全部預かろうとしないで」

その声は、古い紙をめくるみたいに少しかすれていた。

「預かれなかった本音にも、行き先はある。月見堂だけじゃない。だから――守って」

扉が閉まると、銀色の霜だけが床に残った。

ナツメは赤印伝票を交代表の隣に置いた。

ユカが、そっとペンを取る。

そして空白だった欄の下に、小さく書き足した。

満月の日:預からない時間を、先に決める。

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