著者: 無職仙人
「受け止めない勇気」
約5分
この話は連載の途中です。 第1話から読む
ぱたん、と。
ユカが本音ノートを閉じる音が、満席の月見堂に響いた。
それは大きな音ではなかった。けれど、カップの震える音も、客たちのすすり泣きも、天井を這う黒い煤のざわめきも、その一瞬だけぴたりと止まった。
「……ナツメさん。もう、書けません」
ユカの声は震えていた。けれど、逃げ腰ではなかった。
カウンターの向こうで、ナツメは笑ったままだった。
「大丈夫。次の方だけ。あの人、立っているのもつらそうだから」
「その“次の方だけ”が、ずっと続いてます」
ユカはノートを胸に抱いた。表紙には煤が薄く積もり、指で触れたところだけ白い月のように抜けている。
入口では、五人目、六人目、そして“まだ名前のない誰か”の気配が重なっていた。
――助けてほしい。
――ここなら聞いてくれるって。
――あなたなら、わかってくれるって。
善意の列だった。怒鳴る人はいない。押し入ろうとする人もいない。ただ、疲れた顔で、静かに待っている。その静けさが、店の扉を重く押していた。

モチ丸の白い巨体が、入口の煤の流れを受け止めている。ふわふわの毛並みは黒く汚れ、耳の先がぴくりと震えた。
サトルはその隣で、いつもの間延びした声を封印していた。
「ナツメ氏。ここで受けたら、月見堂は“休める店”じゃなくなるでござる」
「でも、来てしまった人を帰すなんて」
「帰すんじゃない」
サトルは唇を噛む。
「壊れない場所まで、待ってもらうんだ」
その言葉に、ナツメの笑顔がわずかに歪んだ。
そのとき、裏口の鈴が鳴った。
銀髪三つ編みの配達少女が、濃紺のケープに煤をまとって立っていた。腕には月砂糖の袋。けれど彼女は、それを開けなかった。
「飲ませないの?」
ミナトが思わず尋ねる。
少女は首を横に振った。
「今、砂糖を足したら、もっと預かれる気がしてしまう」
彼女は袋を胸に抱いたまま、静かに言った。
「これは、開けない使い方もある。まだ、言えないけど」
月砂糖の袋の中で、銀色の粒がかすかに鳴った。まるで、小さな鐘のように。
「……僕が言う資格、ないと思ってました」
ミナトが一歩、前に出た。
彼の手には黒い付箋が何枚も握られている。そこには、店の外から飛んできた期待の言葉が滲んでいた。
「僕はこの店を傷つけた側です。炎上させた側です。だから、止めるなんて偉そうなこと、できないって」
ナツメが息を呑む。
ミナトは顔を上げた。目の下には濃い影があったが、その声は不思議とまっすぐだった。
「でも、傷つけたからこそ、わかります。善意の顔をした言葉でも、人を潰せる。『あなたなら』って言葉は、時々、刃物です」
彼は入口へ向かった。
「僕にも、止める権利があります。もう二度と、この場所を壊す側に回らないために」
その背中を見て、ユカが続いた。
「私も、止めます。好きだから手伝いたい。でも、好きだからこそ、ナツメさんを壊したくない」
ドアノブが外から小さく揺れた。
「すみません……まだ、入れますか」
弱い声だった。
ナツメの肩が反射的に動く。
だが、その前に――黒いスーツの腕が、扉の前に伸びた。
サトルの兄だった。いつの間にか店の外側から回り込み、煤にまみれた肩で扉を支えている。
「本日の営業は終了です」
声は硬かった。けれど冷たくはなかった。
「明日以降、開いている時間に来てください。緊急の相談先は、こちらに書いてあります。ここは今、休む時間です」
兄は用意していた紙を、扉の隙間から外へ差し出した。
外の誰かが受け取る気配がした。

ユカ、ミナト、兄。
三人が扉の前に並んだ。
小さな喫茶店の入口を塞ぐには、あまりにも頼りない壁だった。けれどその背中は、さっきまで天井を覆っていた煤よりもずっと濃く、はっきりしていた。
「ナツメさん」
ユカが振り返る。
「受け止めないのも、店を守ることです」
ナツメの指先から、カップが滑り落ちそうになった。サトルがそっと受け取る。
「……私、ひどい店主かな」
「ひどいでござる」
サトルは即答した。
ナツメが目を丸くする。
「自分だけを従業員扱いしない、超ブラック店主でござる」
その一言に、張りつめた空気が少しだけ緩んだ。ユカが泣き笑いし、ミナトも肩を震わせる。
ナツメは、ようやく笑顔をほどいた。
完璧な店主の顔が剥がれ、疲れ切った三十二歳の女性の顔が現れる。
「……休みたい」
小さな本音だった。
けれど月見堂の中で、その言葉だけは煤にならなかった。
配達少女が開けない月砂糖の袋を、そっとカウンターに置く。
「それでいい」
彼女はかすれた声で言った。
「今日は、預からない日」
扉の外で、ざわめきが揺れた。落胆も、戸惑いもあった。けれど、兄の声がもう一度、静かに告げる。
「申し訳ありません。月見堂は、今、休みます」
その瞬間、入口の煤が一歩だけ後ろへ引いた。
ナツメはカウンターに手をつき、深く息を吐いた。
背後の窓ガラスが、白く光る。
夜のはずだった。
なのに、ナツメの背中の向こうで――昼の白い月が、満月のように濃くなっていた。

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