著者: 無職仙人
「煤に沈む満月」
約5分
この話は連載の途中です。 第1話から読む
「はたらきたくないでござる~!」
サトルのいつもの声は、月見堂の入口で弾けた――はずだった。
けれど、その語尾は黒い煤に絡め取られ、店内の奥へ届く前に、ふつりと消えた。
「……声、吸われたでござる?」
サトルは目を丸くした。横では、巨大な白ウサギ――モチ丸が、狭い入口に耳をぶつけながら、もふ、と床を踏む。白い毛並みに黒い粉が降りかかり、満月の夜に雪ならぬ灰が積もるみたいだった。
「サトルさん……!」
ユカが駆け寄ろうとして、途中で咳き込む。
ミナトはカウンター脇で黒い付箋の束を握りしめ、青ざめていた。
天井には、煤の雲。
壁には、誰かの言えなかった言葉が影のように滲んでいる。
もっと聞いて。
まだ救われてない。
ここなら、最後まで受け止めてくれるんでしょ。
月見堂の古びたランプは、煤をかぶって鈍く揺れていた。

「ナツメ、休業札を」
サトルが言いかけた瞬間、カウンターの向こうでナツメが顔を上げた。
「……まだ、四人目のお客さんの返事が終わってない」
その声は落ち着いていた。
落ち着きすぎていて、ユカの胸が嫌な音を立てた。
「ナツメさん、もう休憩時間です。交代表にも――」
「わかってる」
ナツメは微笑んだ。いつもの、客を安心させるための笑顔だった。
「でも、今この人たちを帰したら、どこへ行けばいいの?」
その言葉に、店内の煤がざわりと膨らむ。
まるで「そうだ」と頷くみたいに。
サトルの表情から、ふざけた色が抜けた。
「満月が増やすのは、本音だけじゃないでござる」
「え?」
「期待も、でござる。月見堂ならなんとかしてくれる、ナツメ殿なら最後まで笑ってくれる――そういう、まだ来てない声まで呼ぶ」
ミナトが震える指で予約表を指した。
そこには、今朝から増え続けていた名前と煤文字。
そして一番下に、ぽっかりとした空欄があった。
何も書かれていない。
なのに、その欄だけが、紙を沈ませるほど黒く重かった。
「……この空欄、まだ来ない本音です」
ミナトの声がかすれる。
「来てないのに、もう重い。たぶん、“これから救ってもらうはずだった誰か”の期待が、先に届いてる」
ユカはぞっとした。
人がいない席に、見えない誰かの疲れだけが座っている気がした。
それでも、ナツメは手を止めなかった。
「大丈夫です。ゆっくりでいいです」
四人目の客――スーツの袖を握りしめた若い男性に、ナツメは月砂糖入りのコーヒーを差し出す。
カップの表面には、銀色ではなく黒い粒が浮いていた。
それでも男性は両手で包み込み、涙を落とした。
「……僕、もう会社に行けないかもしれません」
「行けないと思うくらい、疲れてるんですね」
ナツメの返事は短く、やさしかった。
その一言で男性の肩がほどける。
けれど同時に、カウンターの外側で煤が盛り上がった。
ざざ、と波のように。
床を這い、椅子の脚を飲み込み、ついにはカウンターの縁を越えた。
「ナツメさん!」
ユカが叫ぶ。
黒い煤はナツメの手元へ流れ込み、本音ノートの端を染めた。
白かったページが、じわじわと夜に沈んでいく。
そこに文字が浮かぶ。
もっと。
まだ。
あなたなら。
ナツメの指先が、ほんの少し止まった。

「ナツメ殿、そこまででござる」
サトルが一歩踏み込む。モチ丸も、入口から無理やり店内へ身体を押し込んだ。もふもふの腹が椅子を押し、煤の波を少しだけせき止める。
「モチ丸、ナイス堤防!」
しかし、冗談めかした声にも余裕はなかった。
ユカは交代表を掴んだ。
「ナツメさん、お願いです。今は“助ける時間”じゃなくて、“預からない時間”です」
「でも」
「でもじゃないです!」
ユカの声が震えた。
怒っているのではない。泣きそうなのを、必死で押さえていた。
「私、ナツメさんに救われました。だから……ナツメさんが壊れるところを見たくないんです」
ミナトも続いた。
「受け止めることと、全部飲み込むことは違います。僕は前に、言葉でここを傷つけました。だからわかります。いま増えてるのは、本音だけじゃない。ナツメさんに背負わせたい重さです」
店内が一瞬、静まった。
だがその静けさは、安堵ではなかった。
満月の光が窓から差し込み、煤の粒を銀黒く光らせる。
ナツメは本音ノートに手を置いたまま、ゆっくり息を吸った。
「……休業札、出す」
そう言った。
ユカの顔に、ほんの少し光が戻る。
けれど、次の瞬間。
入口の外から、小さな声がした。
「すみません……まだ、入れますか」
ナツメの肩が揺れた。
誰も動けなかった。
その声は弱く、細く、冬の夜風に消えそうで。
だからこそ、ナツメの中の何かを強く引っ張った。
「……少しだけなら」
「ナツメ!」
サトルの制止より早く、ナツメは笑顔を作ってしまった。
「大丈夫です。お話、聞きます」
煤が、どっと壁まであふれた。
客席も、窓も、古い時計も、月見堂の輪郭が黒に沈んでいく。
それでもナツメはカウンターに立っていた。
背筋を伸ばし、声をやわらかく整え、来た人を怖がらせないように。
「寒かったですね。座ってください」
その笑顔は完璧だった。
店主としての、月見堂の灯りとしての、誰かを安心させるための笑顔。
ユカは、その手元を見てしまう。
カウンターの下。
エプロンの陰で、ナツメの指が小さく震えていた。
誰にも見えないように。
誰にも心配させないように。
ナツメは笑っていた。
満月の夜、煤に沈む月見堂で。
助ける側の本音だけが、まだどこにも預けられないまま。
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