著者: 無職仙人
月砂糖は薬じゃない
月砂糖の木箱をカウンター下へ運び込んだ翌朝、月見堂の扉は開店札を出す前から鳴った。
「すみません! 月砂糖、瓶で売ってもらえませんか!」
飛び込んできたのは、くたびれたコートの女性だった。目の下には濃い影。両手で握った財布が、まるでお守りみたいに震えている。
ナツメはエプロンの紐を結びかけたまま、瞬きをした。
「瓶、ですか?」
「はい。昨日、ここで飲んだ人が言ってたんです。月砂糖入りのコーヒーを飲んだら、胸が軽くなったって。だから……家でも飲めば、明日から平気になれるかなって」
その言葉に、ユカが本音ノートを抱える手を少し強くした。
ミナトは棚の前で、黒い煤のついた紙片を分類していた手を止める。
タブレットの画面では、旅先のサトルが布団に埋まりながら顔だけ出していた。隣では巨大白ウサギのモチ丸が、当然のように画面の半分を占領している。
『むむ。これはもしや、月砂糖万能薬説でござるか』
「サトル、茶化さない」
ナツメが小声で釘を刺す。
女性は必死だった。
「お金なら払います。高くてもいいです。これがあれば、泣かずに会社に行けるかもしれないんです」
その声は、まっすぐで、だからこそ危うかった。
カラン、と二度目のベルが鳴った。
入ってきたのは、銀髪を三つ編みにした満月便の配達少女だった。濃紺のケープに、朝の光が淡く乗っている。
「月砂糖の個人販売はできません」
彼女は挨拶より先に、きっぱりと言った。
女性の顔がこわばる。
「どうしてですか。苦しい人が楽になるなら、いいじゃないですか」
「月砂糖は、心を変えない」
少女の声は冷たくはなかった。ただ、逃げ道に見える扉へ、静かに鍵をかけるような響きだった。
「悲しい気持ちを消す薬じゃない。つらい職場を好きにする粉でもない。言えなかった言葉を、否定せず預かるための合図。温かい飲み物と、座る場所と、聞く人がそろって、初めてほどける」
ユカが小さく息を吸った。
「……だから、砂糖だけじゃだめなんですね」
少女はうなずく。
「本音は、溶かして飲み込むものじゃない。いったん外に出して、誰かと眺めるもの」
サトルが画面の向こうで、珍しく真面目な顔をした。
『便利な救いは、たまに心を置き去りにするでござるな』
モチ丸が、ぽふ、とサトルの頭に顎を乗せる。
『重い。だが今の拙者には説得力がある。置き去りどころか押し潰されている』
「台無しにしないでください」
ミナトがぼそっと言って、少しだけ笑った。
ナツメは木箱から小瓶を一本取り出した。
月砂糖は、光を含んだ粗い結晶みたいに見えた。けれど瓶を傾けても、奇跡の音なんてしない。ただ、さらり、と普通の砂糖と同じ音がした。
女性の視線がそこへ吸い寄せられる。
ナツメは瓶を棚へ戻した。
「すみません。月砂糖は売れません」
女性の肩が落ちる。
けれどナツメは続けた。
「でも、一杯ずつなら淹れられます。ここで座って、飲んで、もしよければ一行だけ書いてください。何がつらいのか。何を言えなかったのか。答えは急がなくていいです」
「……一杯だけで、変われますか」
「変わらないかもしれません」
ナツメは正直に言った。
「でも、今日をひとりで抱え込まないことはできます」
その言葉に、女性の財布を握る手から力が抜けた。
ユカがそっと席を引く。ミナトは新しい紙片を一枚、テーブルに置いた。サトルは画面越しに両手を合わせる。
『ようこそ月見堂へ。はたらきたくないでござる精神とは、つまり“壊れる前に座るでござる”精神であります』
「それ、看板に書いたらまた誤解されるから却下」
ナツメはそう言いながら、ネルドリップのポットを手に取った。
湯気が立つ。コーヒーの香りが、朝の冷たい店内をゆっくり満たしていく。月砂糖をひと匙。カップの中で、小さな満月が沈むように溶けた。

女性は一口飲んで、すぐには泣かなかった。
ただ、長い長い息を吐いた。
「……私、本当は、明日が来るのが怖いです」
紙に落ちた文字の端から、黒い煤がふわりとにじむ。
配達少女がそれを見て言った。
「黒い煤は、どこにでもある。でも、受け止め続ける場所でだけ濃く見える」
ナツメはカップを持つ手を止めた。
「じゃあ、月見堂が煤を増やしてるわけじゃない?」
「見えるようにしているだけ。見えたものは、扱える。ただし、預かる側が休まないと、煤は肺に入る」
重い忠告だった。
ナツメは深くうなずいた。
「販売はしません。一杯ずつ淹れます。受付時間も守ります。ここを薬局にはしない。……喫茶店のままでいます」
少女は、ほんの少しだけ目を細めた。
「それがいい」
昼前、女性は紙片を一枚残して帰っていった。
《明日が怖い。でも、怖いと言えた》
それだけだった。けれど黒い煤は、さっきより薄くなっていた。
ミナトはその紙片を本音ノートに挟み、しばらく考え込んだあと、余白に自分の字で書き添えた。
《預けた後の言葉も必要》
ナツメが覗き込む。
「どういう意味?」
ミナトはペン先を見つめたまま答えた。
「預けて終わりじゃなくて……その後、どうしたいか。誰に伝えるか。休むのか、逃げるのか、助けを呼ぶのか。そういう言葉も、きっと必要なんだと思います」
ユカが静かにうなずいた。
窓の外には、昼の白い月がまだ薄く浮かんでいる。
月見堂のカウンターには、売られなかった月砂糖の瓶と、淹れられるのを待つカップが並んでいた。便利な奇跡ではなく、一杯ずつの対話として。
ナツメは新しい札を入口に掛ける。
本音、一枚からお預かりします。
月砂糖は、お話と一緒に。