著者: 無職仙人
休みを商品にしないで
「はたらきたくないでござる~! ……と、言いたい朝ほど、机の上に仕事が増える現象、名前つけたいでござる」
開店前の月見堂。
カウンターには、まだ湯気の立たないコーヒーカップの代わりに、分厚い企画書が三冊、どん、と積まれていた。
表紙には、きれいなフォントで、
《月見堂式・本音ケア研修企画書》
その横にはテレビ局の名刺。さらに、企業ロゴ入りの封筒。
ナツメはエプロン姿のまま、腕を組んでいた。
「……昨日、札を掛けたばかりなんだけど」
ユカが本音ノートを胸に抱え、小さく苦笑する。
「評判、広がるの早いですね」
ミナトは企画書の端をつまみ、眉をひそめた。
「早いっていうか……匂いを嗅ぎつけた感じがします」
タブレットの中のサトルは、旅館の座布団に沈みながら真顔だった。背後ではモチ丸が白い山のように丸まっている。
『“休める場所”が評価されるのは嬉しい。でも、“休めるっぽさ”が売られるのは、ちょっと怖いでござるな』
その言葉に、ナツメは返事をしなかった。
怖い。
たしかに、胸の奥にある感情はそれだった。
午前十時。
月見堂の扉が鳴り、スーツ姿の男女が二人、丁寧すぎる笑顔で入ってきた。
「本日はお時間をいただきありがとうございます。株式会社ノンレム人財設計舎、人事企画部の遠野と申します」
続いて、テレビ局の名刺を差し出した男性が頭を下げる。
「番組制作の秋川です。以前の反響を拝見しまして、ぜひ密着企画を」
ナツメは席を勧め、コーヒーを出した。もちろん、月砂糖は入れない。
遠野は企画書を開き、流れるように説明を始めた。
「御店の取り組みは、いま企業に必要な“本音を引き出す場づくり”そのものです。社員研修に導入できれば、離職防止やメンタルヘルス対策として、大きな効果が見込めます」
「……うちは喫茶店です」
「もちろんです。ですから、ブランドイメージを損なわない形で。たとえば、本音ノートの内容を匿名化して教材化し、管理職研修に使用するなど」
空気が、ぴしりと薄く割れた。
ユカが本音ノートを抱く腕に力を入れる。ミナトの指先が、テーブルの下でかすかに震えた。

ナツメはすぐに答えられなかった。
本音ノート。
そこにあるのは、誰にも言えず、やっと一行にした言葉たちだ。
「疲れた」
「怖い」
「もう無理かもしれない」
それを、研修教材に?
誰かの役に立つかもしれない。そう思わないわけではなかった。
けれど――。
『待った』
タブレットから、サトルの声が低く響いた。
『そのノートは、採取されたデータじゃないでござる。席に座って、手を震わせながら置いていった、本音でござる』
秋川が笑顔を保ったまま言う。
「もちろん、感動的な文脈で扱います。視聴者にも伝わるはずです。“休むことの大切さ”が」
ナツメの胸が、さらに重くなった。
休むことの大切さ。
その言葉が、こんなにも正しくて、こんなにも危うく聞こえるなんて。
昼前、打ち合わせはいったん保留になった。
「前向きにご検討ください」
遠野はそう言い残し、名刺を置いて帰っていった。扉のベルが鳴り終わっても、店内には企画書の重みだけが残っている。
ユカがぽつりと言った。
「……いいことに使われるなら、断るのも違うのかなって、少し思いました」
「うん」
ナツメは企画書の表紙を見つめる。
「でも、預けた人に聞かないまま使うのは違う。たとえ匿名でも」
ミナトがうつむいたまま、絞り出すように言った。
「言葉って、切り取られると変わります。僕が、それをやったから……わかります」
そのとき、ナツメのスマホが震えた。
画面には、サトルの兄の名前。
通話に出ると、真面目な声が聞こえた。
『企画の話、サトルから少し聞きました。ナツメさん、感情だけで断るのも、感情だけで受けるのも危険です』
「……はい」
『本音ノートは個人情報以上に繊細です。利用規約、同意、保管方法、取材範囲。現実の制度で守る必要があります。善意だけでは、店も預けた人も守れない』
その言葉は冷たくなかった。
むしろ、傘の骨みたいだった。
雨を止めることはできない。でも、差し方を覚えれば、濡れ方は変えられる。
「守る方法も、勉強しなきゃいけないんですね」
『はい。必要なら手伝います』
通話が切れたあと、サトルが画面の向こうでへらりと笑った。
『兄上、社会性の権化でござるな。拙者の失われし社会性を全部持っていった説』
「茶化さない」
そう返しながらも、ナツメの口元は少しだけ緩んだ。
けれど、不安は消えない。
評価されることは、嬉しい。
必要とされることも、きっと悪いことじゃない。
でも、月見堂が預かってきたものが、誰かの企画書の中で「成功事例」や「感動コンテンツ」に変わるなら。
それは、本当に休む場所を広げることなのか。
それとも、休みさえ商品にされることなのか。
午後の光が、窓辺に差し込んだ。
外には、また昼の白い月が浮かんでいる。
淡く、静かで、けれど今日は少しだけ近い。
ナツメは企画書を閉じようとして、手を止めた。
窓から差した白い月の光が、表紙の文字をなぞっている。
その瞬間。
さらり、と。
企画書の角に、薄い黒い煤が落ちた。
ユカが息をのむ。ミナトは反射的に本音ノートを開いた。
サトルの顔から、ふざけた色が消える。
ナツメは煤のついた表紙を見つめた。
《月見堂式・本音ケア研修企画書》
きれいな言葉の上に、黒い点がひとつ。
まるで、誰かが小さく警告しているみたいだった。
「……休みを」
ナツメはゆっくり言った。
「商品にしないで」
その声はまだ、決断ではなかった。
けれど月見堂の中で、確かにひとつの本音として落ちた。
