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第20話: 休みを商品にしないで

無職仙人の話

著者: 無職仙人

休みを商品にしないで

「はたらきたくないでござる~! ……と、言いたい朝ほど、机の上に仕事が増える現象、名前つけたいでござる」

開店前の月見堂。

カウンターには、まだ湯気の立たないコーヒーカップの代わりに、分厚い企画書が三冊、どん、と積まれていた。

表紙には、きれいなフォントで、

《月見堂式・本音ケア研修企画書》

その横にはテレビ局の名刺。さらに、企業ロゴ入りの封筒。

ナツメはエプロン姿のまま、腕を組んでいた。

「……昨日、札を掛けたばかりなんだけど」

ユカが本音ノートを胸に抱え、小さく苦笑する。

「評判、広がるの早いですね」

ミナトは企画書の端をつまみ、眉をひそめた。

「早いっていうか……匂いを嗅ぎつけた感じがします」

タブレットの中のサトルは、旅館の座布団に沈みながら真顔だった。背後ではモチ丸が白い山のように丸まっている。

『“休める場所”が評価されるのは嬉しい。でも、“休めるっぽさ”が売られるのは、ちょっと怖いでござるな』

その言葉に、ナツメは返事をしなかった。

怖い。

たしかに、胸の奥にある感情はそれだった。


午前十時。

月見堂の扉が鳴り、スーツ姿の男女が二人、丁寧すぎる笑顔で入ってきた。

「本日はお時間をいただきありがとうございます。株式会社ノンレム人財設計舎、人事企画部の遠野と申します」

続いて、テレビ局の名刺を差し出した男性が頭を下げる。

「番組制作の秋川です。以前の反響を拝見しまして、ぜひ密着企画を」

ナツメは席を勧め、コーヒーを出した。もちろん、月砂糖は入れない。

遠野は企画書を開き、流れるように説明を始めた。

「御店の取り組みは、いま企業に必要な“本音を引き出す場づくり”そのものです。社員研修に導入できれば、離職防止やメンタルヘルス対策として、大きな効果が見込めます」

「……うちは喫茶店です」

「もちろんです。ですから、ブランドイメージを損なわない形で。たとえば、本音ノートの内容を匿名化して教材化し、管理職研修に使用するなど」

空気が、ぴしりと薄く割れた。

ユカが本音ノートを抱く腕に力を入れる。ミナトの指先が、テーブルの下でかすかに震えた。

挿絵 slot2

ナツメはすぐに答えられなかった。

本音ノート。

そこにあるのは、誰にも言えず、やっと一行にした言葉たちだ。

「疲れた」

「怖い」

「もう無理かもしれない」

それを、研修教材に?

誰かの役に立つかもしれない。そう思わないわけではなかった。

けれど――。

『待った』

タブレットから、サトルの声が低く響いた。

『そのノートは、採取されたデータじゃないでござる。席に座って、手を震わせながら置いていった、本音でござる』

秋川が笑顔を保ったまま言う。

「もちろん、感動的な文脈で扱います。視聴者にも伝わるはずです。“休むことの大切さ”が」

ナツメの胸が、さらに重くなった。

休むことの大切さ。

その言葉が、こんなにも正しくて、こんなにも危うく聞こえるなんて。


昼前、打ち合わせはいったん保留になった。

「前向きにご検討ください」

遠野はそう言い残し、名刺を置いて帰っていった。扉のベルが鳴り終わっても、店内には企画書の重みだけが残っている。

ユカがぽつりと言った。

「……いいことに使われるなら、断るのも違うのかなって、少し思いました」

「うん」

ナツメは企画書の表紙を見つめる。

「でも、預けた人に聞かないまま使うのは違う。たとえ匿名でも」

ミナトがうつむいたまま、絞り出すように言った。

「言葉って、切り取られると変わります。僕が、それをやったから……わかります」

そのとき、ナツメのスマホが震えた。

画面には、サトルの兄の名前。

通話に出ると、真面目な声が聞こえた。

『企画の話、サトルから少し聞きました。ナツメさん、感情だけで断るのも、感情だけで受けるのも危険です』

「……はい」

『本音ノートは個人情報以上に繊細です。利用規約、同意、保管方法、取材範囲。現実の制度で守る必要があります。善意だけでは、店も預けた人も守れない』

その言葉は冷たくなかった。

むしろ、傘の骨みたいだった。

雨を止めることはできない。でも、差し方を覚えれば、濡れ方は変えられる。

「守る方法も、勉強しなきゃいけないんですね」

『はい。必要なら手伝います』

通話が切れたあと、サトルが画面の向こうでへらりと笑った。

『兄上、社会性の権化でござるな。拙者の失われし社会性を全部持っていった説』

「茶化さない」

そう返しながらも、ナツメの口元は少しだけ緩んだ。

けれど、不安は消えない。

評価されることは、嬉しい。

必要とされることも、きっと悪いことじゃない。

でも、月見堂が預かってきたものが、誰かの企画書の中で「成功事例」や「感動コンテンツ」に変わるなら。

それは、本当に休む場所を広げることなのか。

それとも、休みさえ商品にされることなのか。


午後の光が、窓辺に差し込んだ。

外には、また昼の白い月が浮かんでいる。

淡く、静かで、けれど今日は少しだけ近い。

ナツメは企画書を閉じようとして、手を止めた。

窓から差した白い月の光が、表紙の文字をなぞっている。

その瞬間。

さらり、と。

企画書の角に、薄い黒い煤が落ちた。

ユカが息をのむ。ミナトは反射的に本音ノートを開いた。

サトルの顔から、ふざけた色が消える。

ナツメは煤のついた表紙を見つめた。

《月見堂式・本音ケア研修企画書》

きれいな言葉の上に、黒い点がひとつ。

まるで、誰かが小さく警告しているみたいだった。

「……休みを」

ナツメはゆっくり言った。

「商品にしないで」

その声はまだ、決断ではなかった。

けれど月見堂の中で、確かにひとつの本音として落ちた。

挿絵 slot3
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