著者: 無職仙人
救済の見積書
「はたらきたくないでござる~!」
その文字が、やけに立派な明朝体で会議資料の一ページ目に印刷されていた。
古びた喫茶店・月見堂の丸テーブルに置かれたそれを見て、ナツメはしばらく言葉を失った。
外では冬の陽射しが商店街のシャッターを白く撫で、昼の月が薄い爪痕みたいに空へ浮かんでいる。
「……これ、誰の許可で」
ナツメの声は静かだった。静かすぎて、ユカが本音ノートを抱え直す音まで大きく聞こえた。
企業人事の遠野は、悪びれた様子もなく眼鏡を押し上げる。
「キャッチコピーとして非常に強いので。月見堂式休息研修の導入資料です。もちろん、正式契約後には表記確認を――」
「正式契約前に、もう使ってるじゃないですか」
ミナトが低く言った。
その指先は資料の端を押さえている。紙の上には、前話で落ちた黒い煤の跡が、まだ薄く滲んでいた。
隣ではテレビ局の秋川がタブレットを開き、笑顔を作っている。
「企業研修と密着取材を合わせれば、社会的意義も大きいです。働きすぎの人に休息の大切さを届けられる。月見堂さんの理念を、もっと広く――」
「広く、ですか」
ナツメは資料をめくった。
そこには、綺麗すぎる言葉が並んでいた。
《疲弊社員の早期発見》
《本音抽出ワーク》
《月砂糖体験プログラム》
《離職率低下への寄与》
そして最後のページ。
見積額:三百万円。
ユカが小さく息を呑んだ。
月見堂の古いエスプレッソマシンなら修理できる。ぐらつく椅子も替えられる。雨漏りだって直せる。現実は、いつだって数字の顔をして近づいてくる。

カウンターの上のタブレットが、ぴこん、と鳴った。
画面に映ったサトルは、旅館の縁側らしき場所で毛布にくるまり、巨大白ウサギのモチ丸に半分埋もれていた。
『はたらきたくないでござる~……って、拙者の魂の叫びがパワポに就職してるでござるな』
「笑いごとじゃない」
ナツメが睨むと、サトルはへらりと笑った。けれど目だけは、少しも笑っていなかった。
『研修化された休みは、休みじゃないでござるよ』
遠野が眉を寄せる。
「どういう意味ですか。休息を制度に組み込むことは、むしろ労働環境の改善に――」
『“はい、十五分で本音を出してください。終わったら部署改善に活用します”って言われて、誰が本音を出せるでござる?』
サトルの声が、画面越しに店内へ落ちた。
『休むってのは、成果を出すための準備体操じゃない。壊れた部品を会社に戻す修理工程でもない。
ただ、そこに座っていいっていう時間でござる』
ユカは、本音ノートを胸に抱いた。
そこに挟まった何枚もの紙片が、かすかに震えた気がした。
秋川が言葉を選ぶように口を開く。
「でも、伝え方次第では――」
「伝えるために、誰かの泣いた顔を撮るんですか?」
ユカの声だった。
いつもなら一歩引く彼女が、今日は前へ出ていた。
「ここに来た人たちは、番組の素材じゃないです。研修のケーススタディでもないです。……私も、そうされたら、たぶんもう本音を言えません」
ミナトが続ける。
「匿名にしても、切り取れば別の言葉になります。僕は、それでここを傷つけました。だから、わかります」
店内に沈黙が降りる。
コーヒーの香りだけが、ゆっくりと人の間を流れていった。
ナツメは資料を閉じた。
表紙の「はたらきたくないでござる~!」が、妙に明るくこちらを見上げている。
その下に、小さな文字でこう書かれていた。
《満月当日:大型密着取材予定/企業研修初回実施候補日》
ナツメの指が止まった。
満月。
満月便の配達少女が言った、煤が増える日。
「……この日に、何をするつもりですか」
遠野は少しだけ視線を逸らした。
「注目度が高いタイミングです。満月の月見堂という絵もありますし、参加企業への訴求力が――」
その瞬間、ナツメの中で何かが、静かに切れた。
怒鳴りはしなかった。
ただ、カウンター奥の古い椅子を見た。
一番端の席。
かつてユカが、残業の帰りに倒れ込むように座った椅子。
ミナトが謝りに来て、震える手でカップを握った椅子。
名前も知らない誰かが「怖い」と書いたあと、少しだけ息をした椅子。
三百万円で替えられる椅子ではなかった。
「お断りします」
ナツメは言った。
遠野が目を見開く。
「即答ですか? 金額面なら再調整も――」
「金額の話じゃありません」
ナツメは見積書を手に取った。
「月見堂は、誰かが安心して黙れる場所です。泣いてもいいし、何も言わなくてもいい。
その椅子を、研修会場にはしません。カメラの前にも置きません」
秋川の表情から、作った笑顔が消えた。
「社会に必要な取り組みだと思います」
「必要なら、まずあなたたちの場所で、あなたたちが休んでください」
ナツメの声は少し震えていた。
けれど、逃げてはいなかった。
「ここを使って“休める会社です”って見せるために、うちの常連の椅子を貸すことはできません」

遠野と秋川が帰ったあと、月見堂にはやけに濃い静けさが残った。
タブレットの向こうで、サトルがぱちぱちと小さく拍手する。
『ナツメ氏、店主レベルが上がったでござる。称号、“椅子を守る者”』
「茶化さないで」
そう言いながら、ナツメは少しだけ笑った。
怒りのあとに残った疲れが、膝にじんわり沈んでくる。
ユカがそっと尋ねる。
「……本当に、よかったんですか。修理代とか」
「よくないわよ」
ナツメは正直に答えた。
「でも、よくないからって、売っちゃいけないものがある」
ミナトが破かれた見積書の切れ端を拾った。
ナツメが無意識のうちに、契約欄ごと真っ二つに裂いていたらしい。
紙片には、まだ数字の一部が残っていた。
三百万円の「三」の横。
そこに、ぽつんと黒い煤が一粒だけ、落ちていた。
まるで、次の満月まで消えない小さな警告みたいに。
ナツメはそれを見つめ、静かに息を吸った。
「守ろう。ここを」
その言葉に、ユカもミナトも頷いた。
画面の向こうでモチ丸がサトルを押し潰し、サトルが「拙者も守るでござ……ぐえ」と潰れた声を出す。
月見堂の窓辺に、昼の白い月の光が差していた。
その光はやわらかいのに、どこか試すように、古い椅子たちを照らしていた。