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第21話: 救済の見積書

無職仙人の話

著者: 無職仙人

救済の見積書

「はたらきたくないでござる~!」

その文字が、やけに立派な明朝体で会議資料の一ページ目に印刷されていた。

古びた喫茶店・月見堂の丸テーブルに置かれたそれを見て、ナツメはしばらく言葉を失った。
外では冬の陽射しが商店街のシャッターを白く撫で、昼の月が薄い爪痕みたいに空へ浮かんでいる。

「……これ、誰の許可で」

ナツメの声は静かだった。静かすぎて、ユカが本音ノートを抱え直す音まで大きく聞こえた。

企業人事の遠野は、悪びれた様子もなく眼鏡を押し上げる。

「キャッチコピーとして非常に強いので。月見堂式休息研修の導入資料です。もちろん、正式契約後には表記確認を――」

「正式契約前に、もう使ってるじゃないですか」

ミナトが低く言った。
その指先は資料の端を押さえている。紙の上には、前話で落ちた黒い煤の跡が、まだ薄く滲んでいた。

隣ではテレビ局の秋川がタブレットを開き、笑顔を作っている。

「企業研修と密着取材を合わせれば、社会的意義も大きいです。働きすぎの人に休息の大切さを届けられる。月見堂さんの理念を、もっと広く――」

「広く、ですか」

ナツメは資料をめくった。

そこには、綺麗すぎる言葉が並んでいた。

《疲弊社員の早期発見》
《本音抽出ワーク》
《月砂糖体験プログラム》
《離職率低下への寄与》

そして最後のページ。

見積額:三百万円。

ユカが小さく息を呑んだ。
月見堂の古いエスプレッソマシンなら修理できる。ぐらつく椅子も替えられる。雨漏りだって直せる。現実は、いつだって数字の顔をして近づいてくる。

挿絵 slot1

カウンターの上のタブレットが、ぴこん、と鳴った。

画面に映ったサトルは、旅館の縁側らしき場所で毛布にくるまり、巨大白ウサギのモチ丸に半分埋もれていた。

『はたらきたくないでござる~……って、拙者の魂の叫びがパワポに就職してるでござるな』

「笑いごとじゃない」

ナツメが睨むと、サトルはへらりと笑った。けれど目だけは、少しも笑っていなかった。

『研修化された休みは、休みじゃないでござるよ』

遠野が眉を寄せる。

「どういう意味ですか。休息を制度に組み込むことは、むしろ労働環境の改善に――」

『“はい、十五分で本音を出してください。終わったら部署改善に活用します”って言われて、誰が本音を出せるでござる?』

サトルの声が、画面越しに店内へ落ちた。

『休むってのは、成果を出すための準備体操じゃない。壊れた部品を会社に戻す修理工程でもない。
ただ、そこに座っていいっていう時間でござる』

ユカは、本音ノートを胸に抱いた。
そこに挟まった何枚もの紙片が、かすかに震えた気がした。

秋川が言葉を選ぶように口を開く。

「でも、伝え方次第では――」

「伝えるために、誰かの泣いた顔を撮るんですか?」

ユカの声だった。
いつもなら一歩引く彼女が、今日は前へ出ていた。

「ここに来た人たちは、番組の素材じゃないです。研修のケーススタディでもないです。……私も、そうされたら、たぶんもう本音を言えません」

ミナトが続ける。

「匿名にしても、切り取れば別の言葉になります。僕は、それでここを傷つけました。だから、わかります」

店内に沈黙が降りる。
コーヒーの香りだけが、ゆっくりと人の間を流れていった。


ナツメは資料を閉じた。

表紙の「はたらきたくないでござる~!」が、妙に明るくこちらを見上げている。
その下に、小さな文字でこう書かれていた。

《満月当日:大型密着取材予定/企業研修初回実施候補日》

ナツメの指が止まった。

満月。
満月便の配達少女が言った、煤が増える日。

「……この日に、何をするつもりですか」

遠野は少しだけ視線を逸らした。

「注目度が高いタイミングです。満月の月見堂という絵もありますし、参加企業への訴求力が――」

その瞬間、ナツメの中で何かが、静かに切れた。

怒鳴りはしなかった。
ただ、カウンター奥の古い椅子を見た。

一番端の席。
かつてユカが、残業の帰りに倒れ込むように座った椅子。
ミナトが謝りに来て、震える手でカップを握った椅子。
名前も知らない誰かが「怖い」と書いたあと、少しだけ息をした椅子。

三百万円で替えられる椅子ではなかった。

「お断りします」

ナツメは言った。

遠野が目を見開く。

「即答ですか? 金額面なら再調整も――」

「金額の話じゃありません」

ナツメは見積書を手に取った。

「月見堂は、誰かが安心して黙れる場所です。泣いてもいいし、何も言わなくてもいい。
その椅子を、研修会場にはしません。カメラの前にも置きません」

秋川の表情から、作った笑顔が消えた。

「社会に必要な取り組みだと思います」

「必要なら、まずあなたたちの場所で、あなたたちが休んでください」

ナツメの声は少し震えていた。
けれど、逃げてはいなかった。

「ここを使って“休める会社です”って見せるために、うちの常連の椅子を貸すことはできません」

挿絵 slot2

遠野と秋川が帰ったあと、月見堂にはやけに濃い静けさが残った。

タブレットの向こうで、サトルがぱちぱちと小さく拍手する。

『ナツメ氏、店主レベルが上がったでござる。称号、“椅子を守る者”』

「茶化さないで」

そう言いながら、ナツメは少しだけ笑った。
怒りのあとに残った疲れが、膝にじんわり沈んでくる。

ユカがそっと尋ねる。

「……本当に、よかったんですか。修理代とか」

「よくないわよ」

ナツメは正直に答えた。

「でも、よくないからって、売っちゃいけないものがある」

ミナトが破かれた見積書の切れ端を拾った。
ナツメが無意識のうちに、契約欄ごと真っ二つに裂いていたらしい。

紙片には、まだ数字の一部が残っていた。
三百万円の「三」の横。

そこに、ぽつんと黒い煤が一粒だけ、落ちていた。

まるで、次の満月まで消えない小さな警告みたいに。

ナツメはそれを見つめ、静かに息を吸った。

「守ろう。ここを」

その言葉に、ユカもミナトも頷いた。
画面の向こうでモチ丸がサトルを押し潰し、サトルが「拙者も守るでござ……ぐえ」と潰れた声を出す。

月見堂の窓辺に、昼の白い月の光が差していた。
その光はやわらかいのに、どこか試すように、古い椅子たちを照らしていた。

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