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第22話: 善意の申請書

無職仙人の話

著者: 無職仙人

善意の申請書

「はたらきたくないでござる~!」

タブレットの向こうで、サトルが朝っぱらからいつものように叫んだ。
ただし今回は、巨大白ウサギ・モチ丸の腹毛に半分埋まりながらだったので、声はふかふかに吸われていた。

冬の月見堂には、開店前の静けさが残っている。
古い椅子、少しきしむ床、磨かれたカウンター。窓の外には、まだ昼なのに白い月が薄く浮かんでいた。

その月明かりの下、店先のポストが小さく鳴った。

ナツメが扉を開けると、冷たい空気と一緒に、白い封筒が落ちてきた。
差出人は――市役所。

「……今度は行政?」

ユカが本音ノートを抱えたまま、息を呑む。
ミナトは封筒の端を見て、少し眉をひそめた。

封筒の表には、やけに丁寧な字でこう書かれていた。

《地域こころ休息支援拠点 登録申請のご案内》

挿絵 slot1

「つまり、月見堂さんを市の公認避難所として登録できないか、というお話です」

午前十時。
月見堂のいちばん奥の席に、市民福祉課の職員――白石という若い男性が座っていた。

黒縁メガネに、折り目正しいコート。
声は穏やかで、悪意の匂いはしない。むしろ、緊張で指先が少し震えている。

「最近、相談窓口につながる前に疲れ切ってしまう方が増えていまして。月見堂さんのような場所を、制度として支援できればと」

「支援……」

ナツメはコーヒーを置きながら、慎重に言葉を選んだ。

遠野たちの見積書が脳裏をよぎる。
三百万円。研修。密着取材。本音抽出。

善意の顔をした仕組みが、椅子に座った人の沈黙まで持っていこうとした感触は、まだ消えていない。

タブレットの中でサトルが、モチ丸の耳を避けながら言った。

「行政のハンコは強力でござるよ。味方になると心強いが、うっかりすると営業時間を召喚されるでござる」

「召喚ってなに」

ナツメは呆れたが、否定はしなかった。

白石が差し出した申請書には、支援金の文字があった。
雨漏り修理には、正直ありがたい額だ。

けれど、その下に並ぶ項目が、ナツメの胃を重くした。

《開所時間》
《受入可能人数》
《対応実績報告》
《緊急時の随時受入体制》

「……うちは、二十四時間の施設にはなれません」

ナツメは、はっきり言った。

白石が顔を上げる。

「もちろん、可能な範囲で――」

「可能な範囲を、こちらが決められるなら。受付時間も、休憩時間も、臨時休業も守ります。本音ノートは提出しません。月砂糖は配布物にしません。ここは、数をこなす場所じゃないので」

言い切ると、店内の空気が少しだけ震えた。

申請書の空欄に、ぽつり、と黒い点が落ちる。

ミナトが先に気づいた。

「ナツメさん、そこ……文字が」

空欄だったはずの《開所時間》の欄に、黒い細い文字がにじみ始めていた。

《常時対応》
《休まず受入》
《月内実績三十件以上》

誰も書いていない。
なのに文字は、煤が紙の繊維に染み込むように増えていく。

挿絵 slot2

「……これが、制度の煤?」

ユカが小さく呟いた。

白石の顔から血の気が引いた。

「ち、違います。そんな条件、こちらで強制するつもりは――」

「つもりがなくても、書類になると重くなるんです」

ユカは本音ノートを胸に抱きしめた。
普段より少し強い声だった。

「私、前の職場で“善意だから”って仕事を増やされて、断れませんでした。みんなのため、会社のため、お客様のため。そう言われると、休みたいって言えなくなるんです」

黒い文字が、じわりと止まる。

「救う側にも、休む権利が必要です。ここを公認するなら、ナツメさんが休むことまで、公認してください。相談を断る日があっても責めないでください。椅子を空けておくことも、支援だって認めてください」

店内は静かだった。
外の白い月が、窓ガラス越しに申請書を照らしている。

白石は長い間、申請書を見つめていた。
やがて、胸ポケットから出しかけた判子を、そっと戻した。

「……すみません。僕も、急ぎすぎていたかもしれません」

彼は深く息を吐いた。

「市の窓口にも、助けたい人はいます。でも、助けたい気持ちで別の誰かを潰したら、同じことですね」

ナツメは少しだけ肩の力を抜いた。

「支援を全部拒むつもりはありません。雨漏りも、正直困ってますし」

「では、条件を一緒に作らせてください。営業時間を縛らない形で。実績ではなく、場を守るための支援として」

サトルが画面の中で親指を立てた。

「よいでござる。働かない権利つき公認、最高にロックでござる」

「黙ってて」

ナツメの声は辛口だったが、口元は少し緩んでいた。

白石は申請書を鞄にしまった。
黒い文字はまだ薄く残っていたが、それ以上広がらない。

そして彼は、まるで市役所の職員ではなく、ただ疲れた一人の人みたいに、メニューを見上げた。

「今日は、判を押しません」

白石は少し照れたように笑った。

「まず、一杯のコーヒーをください。できれば……少し、黙って座れる席で」

ナツメは頷き、いつものカップを手に取った。

「はい。月見堂へようこそ」

白い月の光の下で、コーヒーの湯気が静かにほどけていく。
制度と人のあいだに、まだ名前のない椅子がひとつ、置かれた気がした。

挿絵 slot3
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