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第23話: 兄の現実案

無職仙人の話

著者: 無職仙人

兄の現実案

「はたらきたくないでござる~!」

……という声は、その朝の月見堂には響かなかった。

代わりに、冬の商店街を渡る風が、入口の札をかすかに揺らしていた。

《本音、一枚からお預かりします。
受付時間、守ります。預かる人も休みます。》

その札の前に、数人の小さな行列ができている。
昨夜、白石が座った「制度と人のあいだ」の椅子は、今は空いていた。

そして行列の最後尾に、真面目なスーツ姿の男が静かに立っていた。

サトルの兄だった。

背筋はまっすぐ。ネクタイも乱れていない。けれど、その手に提げた黒い鞄だけが、妙に重たそうに見えた。

ナツメはカウンター越しに気づき、眉を上げる。

「……今日は、弟さんを連れ戻しに?」

兄は首を横に振った。

「いいえ。今日は、列に並びに来ました」

その声は、役所の説明よりも、企業の提案よりも、ずっと硬かった。

挿絵 slot1

店内には、コーヒーの香りと紙のこすれる音が満ちていた。

ユカが本音ノートを開き、ミナトが返事用のカードを整理している。白石は端の席で、職員の顔ではなく、ただの客として黙って湯気を見ていた。

兄は順番が来るまで、本当に何も言わなかった。

ナツメが席を示すと、彼は深く頭を下げる。

「月見堂の皆さんに、相談があります。行政や企業と関わるなら、窓口を分けたほうがいい。取材、研修、申請、契約……店主さんたちが全部受けると、またここが削られます」

「現実案、ですか」

ナツメが警戒を隠さず言う。

兄は頷いた。

「はい。僕が表に出ます。条件整理、書類確認、外部との連絡。もちろん、月見堂の方針を勝手に変えるつもりはありません」

その言葉に、ミナトが小さく息を呑んだ。

「……盾になる、ってことですか」

「盾というほど立派ではありません。ただ、弟が壊れかけた時、僕は社会の側にいました」

兄の指が、鞄の持ち手を強く握る。

「だから今度は、せめて社会の言葉から守る側に立ちたい」

その瞬間、カウンターのタブレットが震えた。

画面に映ったのは、旅先の古い民宿の一室。
いつもなら巨大白ウサギ・モチ丸に半分潰されているサトルが、今日は珍しく正座していた。

「兄上、急に真面目モードでござるな。ブラック企業の朝礼かと思ったでござる」

軽口は、いつも通りの形をしていた。

でも、声の端が少しだけ震えていた。


兄は画面の弟を見た。

長い沈黙が落ちる。

冬の白い月が、窓の外で昼間なのにぼんやり光っている。
その光が兄の鞄の金具に触れたとき、中から古びた封筒の角がのぞいた。

ミナトが気づく。ユカも気づく。ナツメは何も言わなかった。

兄は鞄を開けないまま、言った。

「サトル。今日は、改革案より先に謝りたい」

サトルの口元から、笑いが消えた。

「……なんでござるか」

「お前が会社を辞めた時、僕は聞かなかった。何があったのか。どれくらい眠れていなかったのか。どうして食べられなくなったのか」

兄の声が、初めて乱れた。

「家族も、僕も、“次はどうするんだ”ばかり言った。“大丈夫か”より先に、“普通に戻れ”と言った」

タブレットの向こうで、モチ丸がサトルの膝に静かに顎を乗せた。

兄は続けた。

「ごめん。お前の本音を、家族は聞かなかった」

店内の空気が、きゅっと細くなる。
本音ノートの端に、黒い煤がひと粒だけ浮かび、すぐにほどけた。

サトルは何か言おうとして、言えなかった。

いつもの「はたらきたくないでござる~!」も、「兄上重いでござる~!」も、出てこない。

ただ、画面の向こうで三十七歳の無職仙人が、少年みたいな顔をして俯いていた。

挿絵 slot2

「……聞いてほしかったでござるよ」

小さな声だった。

「半年で辞めた理由を、根性なしで終わらせないでほしかった。眠れない夜に、“辞めても生きてていい”って、誰かに言ってほしかったでござる」

兄は目を閉じた。

「遅すぎた」

「遅いでござる」

サトルは即答した。
けれど、そのあとに少しだけ息を吸った。

「でも、今聞いたでござる」

完全な許しではなかった。
抱き合うような和解でもなかった。

ただ、長く閉じていた扉の隙間に、冬の光が一本だけ差したようだった。


ナツメは新しいコーヒーを淹れた。月砂糖は少しだけ。薬ではなく、言葉を飲み込まないための甘さとして。

兄はカップに触れ、ようやく鞄から一枚の封筒を取り出した。古びた診断書らしき紙が、内側に見えた。

「これは、まだ出しません。サトル本人が望む時まで」

サトルが画面越しに目を伏せる。

兄は封筒を鞄へ戻し、ナツメに向き直った。

「月見堂を守るための現実案を作らせてください。外部窓口、取材拒否の文面、申請条件、同意書。ただし、本音ノートは提出しない。月砂糖は配布物にしない。休む権利を最優先にする」

ナツメは少しだけ考え、言った。

「勝手に走ったら、出禁です」

「承知しています」

「サトルさんを利用したら?」

「兄としても、人としても失格です」

ユカが、ほっと息を吐いた。ミナトはカードの端に小さく書く。

《守る役にも、休みが必要。》

サトルが画面の中で、ようやく口角を上げた。

「兄上、表に出る役は胃が痛いでござるよ」

「知ってる」

「休憩、取るでござるよ」

兄は少し笑った。

「お前に言われるとはな」

昼の白い月が、窓辺のカップを淡く照らす。

月見堂の扉の外では、まだ行列が続いていた。
けれどその日から、店の前にもう一枚、札が増えた。

《外部のお問い合わせは、月見堂代理窓口へ。
店内の沈黙を守るため、少しお待ちください。》

兄はその札を、誰より丁寧にまっすぐ貼った。

挿絵 slot3
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