著者: 無職仙人
兄の現実案
「はたらきたくないでござる~!」
……という声は、その朝の月見堂には響かなかった。
代わりに、冬の商店街を渡る風が、入口の札をかすかに揺らしていた。
《本音、一枚からお預かりします。
受付時間、守ります。預かる人も休みます。》
その札の前に、数人の小さな行列ができている。
昨夜、白石が座った「制度と人のあいだ」の椅子は、今は空いていた。
そして行列の最後尾に、真面目なスーツ姿の男が静かに立っていた。
サトルの兄だった。
背筋はまっすぐ。ネクタイも乱れていない。けれど、その手に提げた黒い鞄だけが、妙に重たそうに見えた。
ナツメはカウンター越しに気づき、眉を上げる。
「……今日は、弟さんを連れ戻しに?」
兄は首を横に振った。
「いいえ。今日は、列に並びに来ました」
その声は、役所の説明よりも、企業の提案よりも、ずっと硬かった。

店内には、コーヒーの香りと紙のこすれる音が満ちていた。
ユカが本音ノートを開き、ミナトが返事用のカードを整理している。白石は端の席で、職員の顔ではなく、ただの客として黙って湯気を見ていた。
兄は順番が来るまで、本当に何も言わなかった。
ナツメが席を示すと、彼は深く頭を下げる。
「月見堂の皆さんに、相談があります。行政や企業と関わるなら、窓口を分けたほうがいい。取材、研修、申請、契約……店主さんたちが全部受けると、またここが削られます」
「現実案、ですか」
ナツメが警戒を隠さず言う。
兄は頷いた。
「はい。僕が表に出ます。条件整理、書類確認、外部との連絡。もちろん、月見堂の方針を勝手に変えるつもりはありません」
その言葉に、ミナトが小さく息を呑んだ。
「……盾になる、ってことですか」
「盾というほど立派ではありません。ただ、弟が壊れかけた時、僕は社会の側にいました」
兄の指が、鞄の持ち手を強く握る。
「だから今度は、せめて社会の言葉から守る側に立ちたい」
その瞬間、カウンターのタブレットが震えた。
画面に映ったのは、旅先の古い民宿の一室。
いつもなら巨大白ウサギ・モチ丸に半分潰されているサトルが、今日は珍しく正座していた。
「兄上、急に真面目モードでござるな。ブラック企業の朝礼かと思ったでござる」
軽口は、いつも通りの形をしていた。
でも、声の端が少しだけ震えていた。
兄は画面の弟を見た。
長い沈黙が落ちる。
冬の白い月が、窓の外で昼間なのにぼんやり光っている。
その光が兄の鞄の金具に触れたとき、中から古びた封筒の角がのぞいた。
ミナトが気づく。ユカも気づく。ナツメは何も言わなかった。
兄は鞄を開けないまま、言った。
「サトル。今日は、改革案より先に謝りたい」
サトルの口元から、笑いが消えた。
「……なんでござるか」
「お前が会社を辞めた時、僕は聞かなかった。何があったのか。どれくらい眠れていなかったのか。どうして食べられなくなったのか」
兄の声が、初めて乱れた。
「家族も、僕も、“次はどうするんだ”ばかり言った。“大丈夫か”より先に、“普通に戻れ”と言った」
タブレットの向こうで、モチ丸がサトルの膝に静かに顎を乗せた。
兄は続けた。
「ごめん。お前の本音を、家族は聞かなかった」
店内の空気が、きゅっと細くなる。
本音ノートの端に、黒い煤がひと粒だけ浮かび、すぐにほどけた。
サトルは何か言おうとして、言えなかった。
いつもの「はたらきたくないでござる~!」も、「兄上重いでござる~!」も、出てこない。
ただ、画面の向こうで三十七歳の無職仙人が、少年みたいな顔をして俯いていた。

「……聞いてほしかったでござるよ」
小さな声だった。
「半年で辞めた理由を、根性なしで終わらせないでほしかった。眠れない夜に、“辞めても生きてていい”って、誰かに言ってほしかったでござる」
兄は目を閉じた。
「遅すぎた」
「遅いでござる」
サトルは即答した。
けれど、そのあとに少しだけ息を吸った。
「でも、今聞いたでござる」
完全な許しではなかった。
抱き合うような和解でもなかった。
ただ、長く閉じていた扉の隙間に、冬の光が一本だけ差したようだった。
ナツメは新しいコーヒーを淹れた。月砂糖は少しだけ。薬ではなく、言葉を飲み込まないための甘さとして。
兄はカップに触れ、ようやく鞄から一枚の封筒を取り出した。古びた診断書らしき紙が、内側に見えた。
「これは、まだ出しません。サトル本人が望む時まで」
サトルが画面越しに目を伏せる。
兄は封筒を鞄へ戻し、ナツメに向き直った。
「月見堂を守るための現実案を作らせてください。外部窓口、取材拒否の文面、申請条件、同意書。ただし、本音ノートは提出しない。月砂糖は配布物にしない。休む権利を最優先にする」
ナツメは少しだけ考え、言った。
「勝手に走ったら、出禁です」
「承知しています」
「サトルさんを利用したら?」
「兄としても、人としても失格です」
ユカが、ほっと息を吐いた。ミナトはカードの端に小さく書く。
《守る役にも、休みが必要。》
サトルが画面の中で、ようやく口角を上げた。
「兄上、表に出る役は胃が痛いでござるよ」
「知ってる」
「休憩、取るでござるよ」
兄は少し笑った。
「お前に言われるとはな」
昼の白い月が、窓辺のカップを淡く照らす。
月見堂の扉の外では、まだ行列が続いていた。
けれどその日から、店の前にもう一枚、札が増えた。
《外部のお問い合わせは、月見堂代理窓口へ。
店内の沈黙を守るため、少しお待ちください。》
兄はその札を、誰より丁寧にまっすぐ貼った。
