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第30話: 「満月の予約表」

無職仙人の話

著者: 無職仙人

「満月の予約表」

約5分

この話は連載の途中です。 第1話から読む

「はたらきたくないでござる~!」

満月の朝、タブレット越しに響いたサトルの第一声は、いつも通り気の抜けるものだった。

けれど、月見堂の空気は笑わなかった。

カウンターの上に広げられた予約表は、黒い煤で余白を失っていた。
四席分だけ。時間制限あり。本音ノートは一人一枚。預からない時間も決めた。

そのはずなのに、白い紙の隙間という隙間へ、細い虫のような文字が浮かび上がっている。

休ませてほしい。
でも今日だけは聞いてほしい。
月見堂なら、きっと。
救ってくれるって、聞いたから。

ユカが息を呑む。

「これ……予約じゃないですよね」

ミナトは黒い付箋を握りしめたまま、青ざめた顔でうなずいた。

「未処理の本音と、期待が混ざってる。読まれてないのに、もうここへ来てる」

ナツメは、湯気の立たないコーヒーサーバーを見つめた。
まだ開店前だというのに、店の床には薄く煤が積もっている。

窓の外では、冬の朝空に白い満月が残っていた。
昼でも夜でもない顔で、月見堂を見下ろしている。

「今日は、決めた通りにやる」

ナツメは自分へ言い聞かせるように言った。

「四席だけ。休憩時間は閉める。預からない時間は、預からない」

タブレットの中で、サトルが珍しく真面目な顔をした。

「それでいいでござる。全部助けようとするのは、心の過労死コースでござるよ」

その背後で、駅の発車ベルが鳴った。

キンコン、キンコン。

「サトルさん、今どこですか?」

ユカが聞いた瞬間、画面が大きく乱れた。

『……もし、満月が――』

ざざっ、と音が割れる。

『ナツメ殿、絶対に――』

通信はそこで途切れた。

残ったのは、遠くで鳴る発車ベルだけだった。

挿絵 slot1

開店の札を出した瞬間、入口の向こうに並んでいた人々が顔を上げた。

誰も騒がなかった。
押し寄せもしなかった。

ただ、全員が何かをこぼさないように、胸元を両手で押さえていた。

ナツメは予定通り四人だけを店内へ案内した。
月砂糖をほんの少し入れたコーヒーを出し、本音ノートを一枚ずつ渡す。

「ここで全部言わなくていいです。今日は、一つだけ」

その言葉に、最初の女性が泣いた。
泣きながら、一行だけ書いた。

「もう、明日の朝が怖いです。」

ユカが隣に座り、何も言わずに頷いた。
ミナトは、その紙の端に降った煤を小瓶へ移す。

手順は守れていた。
決めた通りだった。

それでも、煤は増えた。

壁の時計が休憩時間を告げた時、入口の外から小さな声がした。

「……すみません」

ナツメの手が、休業札へ伸びる。

「今日は、ここまで――」

「今日、会社に戻ったら、たぶんもう言えなくなるんです」

声は震えていた。
責める声ではなかった。
だからこそ、刃物みたいに胸へ刺さった。

ナツメの指先が止まる。

ユカが立ち上がりかけた。

「ナツメさん、交代表ではここ、休憩です」

「わかってる」

ナツメは答えた。
けれど、その声は自分でも驚くほど硬かった。

「でも、今の声を聞いて、閉められる?」

誰も答えられなかった。

店内の煤が、ふわりと舞い上がった。
読まれなかった期待。飲み込まれた言葉。押しつけられた救済願望。

それらは黒い雪のように天井へ昇り、月見堂の梁にまとわりついていく。

「一人だけ」

ナツメは呟いた。

「その人だけ聞いたら、休む」

ミナトが低い声で言った。

「その“だけ”が、一番危ないんです」

ナツメは笑おうとした。
けれど、うまくいかなかった。

「知ってる。知ってるけど……私は、この店の店主だから」

その言葉に、ユカの顔が歪んだ。

「店主だから、倒れていいわけじゃないです」

「倒れない」

「倒れる人は、みんなそう言います」

沈黙が落ちた。

その間にも、入口の向こうから、声が増えていく。

すみません。
少しだけでいいんです。
月見堂なら、否定しないって。

ナツメは休業札を握ったまま、唇を噛んだ。

挿絵 slot2

夕方には、店内の灯りが煤に食われて薄暗くなっていた。

月砂糖の瓶には、銀色よりも黒い粒が目立つ。
コーヒーの香りさえ、どこか焦げた紙の匂いに混じっている。

ナツメは、五人目の客の前に座っていた。

四席のはずだった。
休憩も取るはずだった。
預からない時間も、先に決めたはずだった。

それでも彼女は、また一枚の本音ノートを受け取っていた。

「大丈夫です。書いてください」

ユカが背後で小さく首を振る。

ミナトはもう煤の記録をやめていた。
記録するより先に、黒いものが降り積もる。

天井まで昇った煤が、重さを持った雲のように膨らんだ。
今にも店ごと押し潰しそうだった。

ナツメの耳に、サトルの途切れた声が蘇る。

『絶対に――』

その先は聞こえなかった。

絶対に、何だったのだろう。
閉めろ、だったのか。
逃げろ、だったのか。
それとも。

ナツメは、かすかに笑った。

「……はたらきたくないって、こういう時に言うんだったね」

その声は、誰に向けたものでもなかった。

けれどユカが、泣きそうな顔で答えた。

「はい。壊れるまで、働かなくていいんです」

ナツメは本音ノートを閉じた。
手が震えていた。

「休業札、出す」

その瞬間、入口のベルが鳴った。

ちりん。

全員が振り向く。

夜の戸口に、月明かりより白いものが揺れていた。
ふわりと大きな耳。
雪の塊みたいな巨体。

そして、その横に立つ影が、息を切らして片手を上げた。

「ただいま、でござる」

黒い煤の向こうで、サトルが笑っていた。

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