著者: 無職仙人
「満月の予約表」
約5分
この話は連載の途中です。 第1話から読む
「はたらきたくないでござる~!」
満月の朝、タブレット越しに響いたサトルの第一声は、いつも通り気の抜けるものだった。
けれど、月見堂の空気は笑わなかった。
カウンターの上に広げられた予約表は、黒い煤で余白を失っていた。
四席分だけ。時間制限あり。本音ノートは一人一枚。預からない時間も決めた。
そのはずなのに、白い紙の隙間という隙間へ、細い虫のような文字が浮かび上がっている。
休ませてほしい。
でも今日だけは聞いてほしい。
月見堂なら、きっと。
救ってくれるって、聞いたから。
ユカが息を呑む。
「これ……予約じゃないですよね」
ミナトは黒い付箋を握りしめたまま、青ざめた顔でうなずいた。
「未処理の本音と、期待が混ざってる。読まれてないのに、もうここへ来てる」
ナツメは、湯気の立たないコーヒーサーバーを見つめた。
まだ開店前だというのに、店の床には薄く煤が積もっている。
窓の外では、冬の朝空に白い満月が残っていた。
昼でも夜でもない顔で、月見堂を見下ろしている。
「今日は、決めた通りにやる」
ナツメは自分へ言い聞かせるように言った。
「四席だけ。休憩時間は閉める。預からない時間は、預からない」
タブレットの中で、サトルが珍しく真面目な顔をした。
「それでいいでござる。全部助けようとするのは、心の過労死コースでござるよ」
その背後で、駅の発車ベルが鳴った。
キンコン、キンコン。
「サトルさん、今どこですか?」
ユカが聞いた瞬間、画面が大きく乱れた。
『……もし、満月が――』
ざざっ、と音が割れる。
『ナツメ殿、絶対に――』
通信はそこで途切れた。
残ったのは、遠くで鳴る発車ベルだけだった。

開店の札を出した瞬間、入口の向こうに並んでいた人々が顔を上げた。
誰も騒がなかった。
押し寄せもしなかった。
ただ、全員が何かをこぼさないように、胸元を両手で押さえていた。
ナツメは予定通り四人だけを店内へ案内した。
月砂糖をほんの少し入れたコーヒーを出し、本音ノートを一枚ずつ渡す。
「ここで全部言わなくていいです。今日は、一つだけ」
その言葉に、最初の女性が泣いた。
泣きながら、一行だけ書いた。
「もう、明日の朝が怖いです。」
ユカが隣に座り、何も言わずに頷いた。
ミナトは、その紙の端に降った煤を小瓶へ移す。
手順は守れていた。
決めた通りだった。
それでも、煤は増えた。
壁の時計が休憩時間を告げた時、入口の外から小さな声がした。
「……すみません」
ナツメの手が、休業札へ伸びる。
「今日は、ここまで――」
「今日、会社に戻ったら、たぶんもう言えなくなるんです」
声は震えていた。
責める声ではなかった。
だからこそ、刃物みたいに胸へ刺さった。
ナツメの指先が止まる。
ユカが立ち上がりかけた。
「ナツメさん、交代表ではここ、休憩です」
「わかってる」
ナツメは答えた。
けれど、その声は自分でも驚くほど硬かった。
「でも、今の声を聞いて、閉められる?」
誰も答えられなかった。
店内の煤が、ふわりと舞い上がった。
読まれなかった期待。飲み込まれた言葉。押しつけられた救済願望。
それらは黒い雪のように天井へ昇り、月見堂の梁にまとわりついていく。
「一人だけ」
ナツメは呟いた。
「その人だけ聞いたら、休む」
ミナトが低い声で言った。
「その“だけ”が、一番危ないんです」
ナツメは笑おうとした。
けれど、うまくいかなかった。
「知ってる。知ってるけど……私は、この店の店主だから」
その言葉に、ユカの顔が歪んだ。
「店主だから、倒れていいわけじゃないです」
「倒れない」
「倒れる人は、みんなそう言います」
沈黙が落ちた。
その間にも、入口の向こうから、声が増えていく。
すみません。
少しだけでいいんです。
月見堂なら、否定しないって。
ナツメは休業札を握ったまま、唇を噛んだ。

夕方には、店内の灯りが煤に食われて薄暗くなっていた。
月砂糖の瓶には、銀色よりも黒い粒が目立つ。
コーヒーの香りさえ、どこか焦げた紙の匂いに混じっている。
ナツメは、五人目の客の前に座っていた。
四席のはずだった。
休憩も取るはずだった。
預からない時間も、先に決めたはずだった。
それでも彼女は、また一枚の本音ノートを受け取っていた。
「大丈夫です。書いてください」
ユカが背後で小さく首を振る。
ミナトはもう煤の記録をやめていた。
記録するより先に、黒いものが降り積もる。
天井まで昇った煤が、重さを持った雲のように膨らんだ。
今にも店ごと押し潰しそうだった。
ナツメの耳に、サトルの途切れた声が蘇る。
『絶対に――』
その先は聞こえなかった。
絶対に、何だったのだろう。
閉めろ、だったのか。
逃げろ、だったのか。
それとも。
ナツメは、かすかに笑った。
「……はたらきたくないって、こういう時に言うんだったね」
その声は、誰に向けたものでもなかった。
けれどユカが、泣きそうな顔で答えた。
「はい。壊れるまで、働かなくていいんです」
ナツメは本音ノートを閉じた。
手が震えていた。
「休業札、出す」
その瞬間、入口のベルが鳴った。
ちりん。
全員が振り向く。
夜の戸口に、月明かりより白いものが揺れていた。
ふわりと大きな耳。
雪の塊みたいな巨体。
そして、その横に立つ影が、息を切らして片手を上げた。
「ただいま、でござる」
黒い煤の向こうで、サトルが笑っていた。
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